羅馬と難民(須賀敦子)

須賀敦子「ゲットのことなど ローマからの手紙」(in 『霧のむこうに住みたい』*1、pp.87-99)からメモ。


昨日はゲットを歩いてきました。現在でもこう呼ばれているこの地区は、もともと、テヴェレ川の向う岸に住んでいたユダヤ人たちが、中世に洪水を逃れて棲みついたのが起源だそうです。それが十六世紀になって反宗教改革の時代、宗教裁判でも悪名たかいパオロ四世というナポリ人の教皇が(どうしてか、私の読んだ資料には、この残忍な教皇について語るとき、かならずこの《ナポリ人の》という形容詞がついていました)、この地区を城壁で囲んで、門をもうけ、ユダヤ人たちが自由に出入りできないようにしてしまったようです。その地区が「ゲット」と呼ばれるようになったのですが、最初ヴェネツィアで用いられたという以外、この言葉の語源についてはまだ明確な説明はありません。城壁が撤去されたのはやっと十九世紀になってからで、ユダヤ人たちは、それまでずっと、このそとには住めなかっただけでなく、時代によっては、黄色い服を着せられたり、胸に刺繍で印をつけさせられたりしたようです。いまでも、この地区に行くと、(土地が限られているために)中世の建物にしては例外的に背の高い家々や、やっと一人通れるくらいの細い路地が残っています。(p.88)
『地図のない道』でも、須賀さんはヴェネツィアのゲットーに言及している。晩年における重要な関心事のひとつだったといってもいいだろう。
地図のない道 (新潮文庫)

地図のない道 (新潮文庫)

「残忍な」「ナポリ人の教皇」パオロ四世*2については、


Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Paul_IV
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B94%E4%B8%96_%28%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87%29
Giovanni Pietro Caraffa “Pope Paul IV” in Catholic Encycopedia http://www.newadvent.org/cathen/11581a.htm
“Pope Paul IV” http://one-evil.org/content/people_16c_paul_iv.html
Leopold von Ranke “Portrait of Pope Paul IV” https://www.umass.edu/wsp/history/ranke/paul.html
David B. Green “This day in Jewish history / Pope Paul IV orders Jews to live in a ghetto” http://www.haaretz.com/news/features/this-day-in-jewish-history/1.535641


など。


(前略)今日のローマには、自由をもとめて流れついた難民と、フィリピンやアフリカ、東欧などからの、出稼ぎの人たちも多くて、暗い活気のようなものが、この都会の目にみえない部分で、激しく流れているような気がすることもあります。自分たちの生活もそこそこなのに、こんなに外国人を受け入れて、どうする気だろう。終着駅前の広場で、日没のころになると、情報交換をしに集まってくる、このあたらしい(騒々しい)プロレタリアートの群れに、アメリカ人も、日本人も、そして、他のヨーロッパの国々の旅行者も、目を瞠り、眉をしかめます。でも、このあいだ本を読んでいて、現在、私が住んでいる、トラステヴェレというローマの下町が、ローマ時代には、ユダヤ人をふくむ、中東の難民が住み着いた地区だったと知って、ほっとしました。そういえば、都心からこのあたりに来る電車やバスは、いつも、外国人労働者でいっぱいなのです。難民なんて、なにも今日に始まったことじゃない。トラステヴェレの町はそんな、あきらめと、おおらかさがまざった気持で、彼らを受け入れているようです。歴史を肌で知っている、そんな言葉が、ふと、頭に浮かびました。《パオロ四世》や《ヒットラー》さえ生まなければ、今日の難民たちも、やがては、ローマに同化して、あたらしいローマ料理をつくったりしてくれるのでしょう。(pp.98-99)
須賀敦子さんも曽野綾子*3カトリックの信者だったのだ。