ヴィトゲンシュタインの家など

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130418/1366252254に対して、


osaan*1 2013/04/18 14:05 ヴィトゲンシュタインも1913年にウィーンに戻っていますが、半径2マイルに入るのかどうかちょっとわからない。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130418/1366252254#c1366261551
1913年1月にはヴィトゲンシュタインの父カール・ヴィトゲンシュタインが死去し、同年10月には諾威のSkjolden*2に籠もってしまいますが、諾威行きの前に一度剣橋に戻っている筈なので、何月頃までウィーンにいたことやら。ウィーンに戻って滞在した家というのは生家の所謂「ヴィトゲンシュタイン宮殿」ですよね。「ヴィトゲンシュタイン宮殿」は「カールス教会」*3の近くということですが*4、「半径2マイル」だと微妙ではないでしょうか(例えばトロツキーヒトラーが出入りしていたCafe Central*5を起点とした場合)。
さてHaus Wittgensteinはルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが住んだ家ではなく、姉のMargaret Stonborough-Wittgenstein*6のために彼が設計した家*7。1913年には観念としても実在としてもまだ存在していなかった。Haus Wittgensteinはジョナス・メカス*8の『リトアニアへの旅の追憶』に出てきたか。
トゥールミン&ジャニクの『ウィトゲンシュタインのウィーン』は興味深い大著ではあるが、(管見の限りでは)ヴィトゲンシュタインが何処に住んでいたのかについては記述していない。ただ父親カール・ヴィトゲンシュタインのルートヴィッヒに対する影響については、同書pp.279-287を参照のこと。また彼が諾威の寒村で何を思考していたのかについては、鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』pp.63-88を参照されたい。
ウィトゲンシュタインのウィーン (平凡社ライブラリー)

ウィトゲンシュタインのウィーン (平凡社ライブラリー)

Andy Walker “1913: When Hitler, Trotsky, Tito, Freud and Stalin all lived in the same place” http://www.bbc.co.uk/news/magazine-21859771


後半は専ら多民族・多文化・多言語の帝国としてのハプスブルク帝国オーストリアハンガリー二重帝国)の説明。ただ多民族・多文化・多言語ではない〈帝国〉なんてあるのだろうか。それにしても、ハプスブルク帝国で軍の将校は(独逸語以外の)11か国語で命令を下すことができなくてはならなかった!
ヴィトゲンシュタインに戻ると、ヒトラーリンツの実科学校の先輩である(『ウィトゲンシュタインのウィーン』、p.286)。