いいことも悪いことも、など

内田樹「格差と若者の非活動性について」http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php


以前タイトルだけ言及したのだが*1、内容について少しメモ。


格差が進行している最大の理由は「社会上層にいる人間たち」がその特権を自分の才能と自己努力に対する報酬であり、それゆえ誰ともわかちあうべきではないと信じ込んでいる点にあります。
能力や努力(できる能力)というのははっきり言って先天的なものです。「背が高い」とか「視力がよい」とか「鼻がきく」というのと同じ種類の天賦の資質です。それは天からの「贈り物」です。自分の私有物ではない。だから、独占してはならない。
能力というのは「入会地」のようなもの、みんなが公共的に利用するものです。それがたまたまある個人に「天が授けた」。
だから、背が高い人は高いところにあるものを手の届かない人のために取ってあげる。眼の良い人は嵐の接近や「陸地が見えた」ことをいちはやく知らせる。鼻のきく人が火事の発生に気づいて警鐘を鳴らす。そのようにして天賦の能力は「同胞のため」に用いるべきものなのです。
19世紀まで、マルクスの時代まで「団結せよ」という言葉が有効だったのは、マルクス自身が自分の天才を「天賦のもの」だと自覚していたからです。その稟質を利用すれば、マルクスならドイツの「既成制度」の中で、政治家や法曹や大学教授やジャーナリストとしてはなやかな成功を収めることだってできたはずです。でも、マルクスはそうしなかった。自分のこの「現世的成功確実な頭の良さ」を苦しむ弱者のために捧げなければならないと思った。それは倫理の問題というよりは、「能力とは何か?」という問題についての答えの出し方の違いによるのだと私は思います。マルクスは自分の才能を「万人とわかちあう公共財産のようなもの」だと見なしていた。それはたぶん遠い淵源をたどれば、一神教的な人間観に基礎づけられたものでしょう。
これは所謂「プロフェッショナル」の原義に属することであろう*2。神の呼びかけ(calling)に対する応答=宣誓(profess)。ただ考えなければいけないのは、内田氏が批判する「数値的に示される外形的な格付け基準に基づいて、ひとに報償を与えたり、処罰を加えたりすれば、すべての人間は「報償を求め、処罰を恐れて」その潜在能力を最大化するであろうというきわめて一面的な人間観を土台とする、この「能力主義」「成果主義」「数値主義」」もまた同様に基督教的起源を共有しているということだろう。

私たちの社会は利益誘導によって学習努力、就業努力を動機づけようとしてきました。それが作り出したのがこの「働かない若者たち」です。
人間は自己利益のためにはあまり真剣にならない。これは多くの人が見落としている重大な真実です。
自己利益は自分にしかかかわらない。「オレはいいよ、そんなの」というなげやりな気分ひとつで人間は努力を止めてしまう。簡単なんです。
人間が努力をするのは、それが「自分のため」だからではありません。「他の人のため」に働くときです。ぎりぎりに追い詰められたときに、それが自分の利益だけにかかわることなら、人間はわりとあっさり努力を放棄してしまいます。「私が努力を放棄しても、困るのは私だけだ」からです。でも、もし自分が努力を止めてしまったら、それで誰かが深く苦しみ、傷つくことになると思ったら、人間は簡単には努力を止められない。自分のために戦う人間は弱く、守るものがいる人間は強い。これは経験的にはきわめて蓋然性の高い命題です。「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「《彼ら》のためにも、オレはこんなところで死ぬわけにはゆかない」と思う人間では、ぎりぎりの局面でのふんばり方がまるで違う。
それは社会的能力の開発においても変わりません。自分のために、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう。「まあ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止る。でも、他人の人生を背負っている人間はそうはゆかない。
人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる。これは長く教育現場にいた人間として骨身にしみた経験知です。
でも、「こんな当たり前のこと」をきっぱりと語る人間は今の日本では少数派です。圧倒的多数は「人間は競争に勝つために徹底的にエゴイスティックにふるまうことで能力を開花させる」という、(今となっては、ウォール街以外では)十分な経験的基礎づけを持っていない「イデオロギー」を信じている。
〈悪事〉について考えてみる。たんなる自己利益的な動機から凄まじい悪を為すことが可能なのか。〈悪事〉についても、「人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる」。最近中山身語正宗で信者を死亡させるという事件があった*3。被害者である「少女」を死に至らしめたのは決して「自己利益」ではなく「悪霊」を祓ってあげたいという〈善意〉だったわけだ。ということで、この事件から連想したのはジンバルドーの「スタンフォード監獄実験」というよりは寧ろミルグラムの「アイヒマン実験」(『服従の心理』)*4の方だった。ここで、被験者たちは(サクラに)電流を流すことは電流を流される側のためなのだと信じていたわけだ。
服従の心理―アイヒマン実験 (河出・現代の名著)

服従の心理―アイヒマン実験 (河出・現代の名著)

ミルグラムの実験の背景とその余波を巡っては、


徐賁「災難見証和公民運動」(『人以甚麽理由来記憶』*5、pp.295-304
徐賁「我也会是艾克曼嗎? 電醒世界的社会心理実験」(同書、pp.305-322)


が詳しい。