レゲエについて(メモ)

承前*1

某CDショップに、『Riddim』の11月号が置いてあったのだけど、Tuckerという人が


さて、話はヨーロッパに飛んで、シズラのドイツでのステージがまたキャンセルになったとか。理由はヨーロッパ得意の「ゲイ団体の抗議と圧力」によるものだそうで相変わらずのこと。しかし、このニュースを見て思ったのですが、最近のジャマイカのレゲエのリリックで「オカマ撃ち殺せ!」的な内容の曲が以前より少なくなったように感じるのは気のせいでしょうか? 女好きアピール曲、前向きに行こうぜ的曲、近くの友達には気をつけろ的曲は相変わらずなのですが、レゲエの醍醐味(?)であったストレートな「オカマ・バッシング」を歌うアーティスト(ヒット曲)が少なくなっているような気がします。思想的なものは変わっていないんでしょうが、ジャマイカ人に常識がついたんでしょうね(笑)。まあ、そりゃそうだろう。世界に情報が行き渡る現代で「オカマについて歌う」=ジャマイカでは英雄、しかし世界ではバッシング。そんな世界の活躍は不可となれば口を噤むしかないわな。なんかこー、大きな力にレゲエも巻かれ始めているんですね。こーやって国特有の文化は薄れていくのでしょう(悲)。(p.30)
と書いていた。その手で来なすったか。「オカマ・バッシング」に対する「抗議」は「バビロン」の陰謀。まあ、「フェミニズム」や「同性愛」は「金融寡頭勢力」の陰謀だというベンジャミン・フルフォードとかの思想*2と近いことは近いといえるけれど。
ところで、「レゲエはジャマイカのヤンキー文化だろうし、ボブ・マーリー矢沢永吉みたいな存在なんじゃなかろうか」*3。そういえば、1996年に行われた宮沢和史との対談で小玉和文

確かに自分が今でも大事にして聴いているレコードは、だいたい80年代までのレゲエだったりするんですよね。ただ、レゲエというのは音楽の内容が進化するスピードが速い。このスピードが年々速くなってっちゃって、もう目一杯。だから、ここ5年ぐらいのジャマイカのレゲエ・シーンを少し遠ざけて、距離を持って見る時が来ないと、今のレゲエやジャマイカの状況は端的に語れない、という気はするんですよ。例えば80年代以前の、僕なんかが思うレゲエらしかったレゲエっていうものに関して、自分がキャッチしたのはずいぶん後なんですよ。つまり、ボブ・マーリィが死んだ直後ぐらいから急速に接近するわけだけど、レゲエってそれ以前にもあったわけですよ。そのブランクっていうか、こっちが気づかないで入っていけないまでのタイムラグっていうのが、常にレゲエにはあるわけでして。最近のレゲエはディスコっぱくなっちゃってとか、女がどうしたとか拳銃がどうとかという、バッドボーイ・スタイルやガントークみたいなやつがからといって、あんまり積極的には入っていかないわけですよ。だけどそれも含めて、数年後にはどう響いてくるか、わからないですよ。その中にある音楽的なものっていうのが、それだけ抜きんでてるっていうか、ものすごく速いんですよ。
(後略)
宮沢和史『音の棲むところ』、pp.134-135)
と語っていた。
音の棲むところ

音の棲むところ