- 作者: 金井美恵子
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/04/06
- メディア: 文庫
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ところで、「小説を書くこと」については、とりあえずのところおくとして、「結末」がわかるのと知っているのは別の問題であるにしても、小説を読むうえで「結末」は大して重要なことではないだろう。
「結末」がわかってしまう小説というのは、推理小説の場合にはおもしろくないかもしれないが、それが、まあ、「文学」とも呼ばれる分野のものであるならば、小説と呼ばれている以上「結末」は常に誰でもわかっているはずのものだ。それを回避する唯一の方法は、古来、途中で書くことを作者が、その作品を放棄することなしにやめることである。だから、これは凡庸な作者には出来ないし、凡庸な作者は、先行する「未完」の作品の続きを予測して「続編」を書いたりするだろう。そして、私たちは「結末」を知っているし、わかっている小説を、それにもかかわらず(おもしろくないものはない、という小説家がいるにもかかわらず)何度でも喜びをもって読みかえすのだ。
『ボヴァリー夫人』の結末だって、知っているのみならず、わかってしまうものだろうし、正編には続編があることが小説中で予告されるのだから、正編には正式の「結末」はないということになるだろうし、『ドン・キホーテ』の続編は、それは初めて読んだ読者にも、それが騎士物語のパロディである以上、ドン・キホーテが死ぬだろうという結末が理解される。読んでいておもしろくない小説は、結末とは関係なく、はなっからおもしろくないのであって、その中には、しばしば、〈結末がわかってしまう小説ほど書いていても読んでいてもおもしろくないものはない〉といった類いの紋切型の警句が、一切の相対化を経ずに、登場人物の台詞なりなんなりに書かれているものではないだろうか、と書きながら、それは批評の場合には、もっとはなはだしいことになると思いあたったのだがそれにしても、小説は結末がわかることによって、これほど〈おもしろくないものはない〉と言われるものではないし、もし、結末のわかっている「物語」という構造に対して、「小説」には結末の未知という構造があるのだと言い張ったとしても、それは「作品」が「未完」であること、魅惑的な誘惑の不可能性を前にして、あまりにも幼稚な反論としか言えないだろう。(「文学は無邪気さで時代を生きのびよう 1」、pp.126-127)