「性差をマクシマムにしつつ性的成熟を抑圧するオタクのジェンダー戦略に対する抵抗」云々と書いた*1。それを補足する意味で、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080419/1208580191で引用した「ナツ」さんという方の「萌えとエロと純愛」というテクスト*2からまた少し抜書きしておく;
萌え系コミックやエロゲーが、「女は男の性に奉仕するための生き物」(幼い女の子ですら)という性的妄想の上に成立しているものである以上、「キモイ」(生理的に嫌)という感想が女性側から出て来るのは必然だと思う。
それに対して逆ギレする人を見ると、「暴力性に全く気づかないまま萌えコンテンツを消費しているの?」という疑問が浮かんでくる。
「どこにも実在しない少女なんだからいいだろ」という問題ではない。嫌悪の対象は概念(女性観)だからだ。
だからといって、「人の嫌がることはやめましょう」などと言って表現規制を求める運動にもシンパシーは感じない。
無菌状態のサブカルチャーほどつまらないものはないし、ある人間にとっては有害(不愉快)だからこそ、ある人間にとってはたまらなく魅力的ということは往々にしてある。キモいものもグロいものも何も存在しないオタク業界なんてわたしでもごめんだ。
だけど、どれだけ表現の自由が認められても、性妄想関連のコンテンツが永遠に「こっそりと楽しむべき」日陰の趣味であることは変わりないし、偏った女性観の宝庫であることもまた事実だろう。
ポルノの定義は、「性を猥褻的に表現した小説や図画」なので、萌え=二次元エロもポルノの範疇に入るはずなのだが、一部の萌えオタクはそれを認めようとしない、という話である。
「おとなはせっくすなんかしていやらしい」という子供時代のセックス観がそのまま残っているのと、女性というわけのわからない存在への恐怖が、「成熟した男女のセックスとしてのポルノ」を忌避させているのだろう。
それでいて、下半身だけは一人前になっているものだから、妄想だけが肥大しておかしな具合になっている。
ところで、〈児童ポルノ〉問題に対するかつての言及――http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071018/1192728137、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071101/1193896416、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080315/1205588068を取敢えずマークしておく。
主人公の男が、その時々によって能動的だったり受動的だったりはするが、支配・被支配の関係性が、エロティックな要素として濃厚に「萌え」の世界観に組み込まれていることには違いない。
あれを暴力でも支配でもないとするならば―――確かに、女の子のキャラは、どんな扱いを受けても「おにーちゃんだいすき」と嬉しそうに笑っているのだが―――「それは暴力だ」と女が認識することすら禁止されている世界観と言える。
従順に足を開いて男の欲望を無条件で受け入れる白痴の笑みを浮かべた純粋な美少女。
そこには不満も苦痛も悲しみも、自分の置かれた立場への疑問もない。
彼女ら、二次元キャラが、「これは暴力でも支配でもない」と感じていれば、その作品の中でだけは、確かに暴力も支配関係も存在しない。
しかし、それを読んで現実に存在する人間がどう感じるかは、また別の問題だろう。
さて、「シロクマ」という方の「オタク界隈の外でも失われない、「萌え」の重要な機能」*3を興味深く読んだ*4。このエントリーの要諦は多分「萌えるオタクの脳内では、異性へのストレートな発情も自己愛の回収も、キャラクターとの双方向的コミュニケーションを介さずに行われている」、「結局「萌え」は、双方向的コミュニケーションとしてのニュアンスを獲得することもなく、自己満足な快楽希求に、ある種の体裁を提供する機能を担い続けている」というところにあるのだろう。「シロクマ」さんによれば、最初は「二次元美少女」に限定されていた「萌え」が2006年を境に意味やその流通圏を拡張(拡散)していくという;
これを読むと、「萌え」というのは実は「主権」という重要な政治哲学的概念にリンクしているんじゃないかと思いたくもなる*5。
これまで殆ど二次元美少女だけが対象で、言葉の使用者もオタクだけに限られた「萌え」も、今はそうではない。「萌え」という言葉の機能に味をしめた人達が、こぞって「萌え」「萌えー」「萌え〜!」と呟いている。メイドに「萌え」、女子高生に「萌え」、麻生外相に「萌え」、F-22ラプターに「萌え」etc...。もう何でもアリだが、どの用法においても、“相手の都合も等身大の姿もそっちのけのまま、ただ一方向的に欲望を投げかけては自己愛ごと回収”という構図は変わらない。また、「萌え」という言葉の曖昧なオブラート加減が、そういった“業突く張り”を防衛する盾となっている構図も変わらない。やはり、二次元美少女以外を対象にする場合も、「萌え」という言葉でごまかしながら快楽希求をする際には、双方向的なコミュニケーションなどというものは存在しないらしい。自分の欲望を乗せた「○○萌え〜」という呟きは、脳内の快楽タービンを一回転させることはあっても、対象にぶつかることもない。ぶつからないからこそ軋轢や衝突もないわけだが、コミュニケーションも共通理解も生まれない。ただ、脳内の自家発電タービンが一回転して、対象への投射→回収をとおしてナルシスティックな欲望満たされるだけである。この構図は、オタク達が二次元美少女達を消費する際の「萌え」と変わるところが無い。
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080408/1207644864
*2:http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2007/0308002240.php
*3:http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060927/p4
*4:「シロクマ」さんの「脳内補完における、萌えキャラとオタクとの一方向的関係」(http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/otaken/moe_1way.htm)は、この問題についてより詳細に展開されているともいえる。
*5:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061031/1162269189 また、この問題について、アレントの”What is Freedom?”はやはり必読だろうと思う。 Between Past and Future (Penguin Classics)