「匂い」について(メモ)


わたしが子どものころ、家の近所に馬小屋があった。わりと田舎だったのである。そこには馬が走り回れる場所もあって、学校から帰ってくると、馬がぽくぽく歩いている光景が見えた。今にしてみれば、ずいぶん牧歌的だった。しかしなにより記憶にあるのは、その馬小屋がとても臭かったことだ。近くを通ると、馬糞や藁の入り混じった匂いがぷんとした。「動物って匂うんだな」と感じたことを覚えている。かんがえてみると、家から学校までの道のりには、「なんだか臭い場所」がけっこうあった。団地の裏とか、地下通路だとか、用水路のとなりなんかを歩くと、よくわからない、へんな匂いがしたものだし、子どものわたしはそれを特におかしいともおもっていなかった。「外にでると、けっこう臭いものだ」とごく自然にとらえていた。

わたしは東京に住んでいますが、今、外を歩いていて「臭い」と感じることはまずなくなった。臭い場所なんてもうないのである。どこを歩いても無臭だ。不快な匂いなどない。清潔でいいじゃないの、とおもう一方で、この無臭はわたしたちの生活や意識にどういう変化をもたらすのだろうとかんがえてしまう。たとえばたばこ。20m先で吸っている人がいても、煙の匂いがする。あたりが無臭だからだ。世の中がそろって、街中のたばこの匂いにとても敏感になってしまった。すでに「匂いの撲滅」ははじまっているのだろう。すっかり無臭となった場所では、ほんのわずかな匂いも排除の対象になってしまうのではないか。不快な匂いのまったくない場所、清潔で無菌状態の場所。それはほんとうにいい場所なのだろうか。この世界からあらゆる匂いを消すことはできるのか。そこで排除された匂いはいったいどこへいくのか。
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20070718#p1

家の近所には「馬小屋」はなかったが豚小屋はあった。しかし、近隣住民からの苦情があったのかどうかは知らないが、いつの間にかになくなっていた。子どもの頃、東京の川はどこも卵が腐ったような臭いがしていた。「無臭」化のパラドックスはいくら「匂い」がなくなったとしても「匂い」から解放されることはないということだろうか。或る意味で「敏感」になってしまった嗅覚は常に「排除の対象」たる「匂い」を嗅ぎ出してしまうからだ。或る意味で、誰もが神経症になってしまう「この無臭はわたしたちの生活や意識にどういう変化をもたらすのだろう」――正気と狂気の境界の無効化?
ところで、

文化の潮流が、ムダな毛のないからだ、つるりとした肉体を目指すのであれば、陰毛を排除してもおかしくないはずだ。しかし、ファッションやエステ、美容がどれだけ進化しても、「そこだけは残す」のである。どれだけ、すねやわきがなめらかでつるんとしていても、あそこはボーボーです。ちゃんと残ってる。
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20070713#p1
『ヴォーグ・ニッポン』の7月号の「夏になると気になりだすデリケートなあの部分」という記事(p.245)では、「ブラジル人がTバックの水着を着用するために、アンダーヘアを完全にワックス脱毛したのが始まり」の「ブラジリアンワックス」が紹介されている。だから、伯剌西爾文化では残さないんじゃないでしょうか。話はずれるが、伯剌西爾では〈巨乳〉がセクシーであるとは見なされておらず、(他の社会とは反対に)豊胸手術ではなく貧胸手術の需要が高いということをずいぶん以前に読んだ憶えがある。同じく『ヴォーグ・ニッポン』7月号のJan Masters「あなたはどう? 人前でのメイク作法」(pp.248-249)という記事を読むと、「人前でのメイク」は日本と同様、英国でも論争の的になっているらしい。但し、日本のように脳科学やら何やらを持ち出す人がいるのかどうかはわからない。Jan Mastersのアドヴァイスのひとつは「人前で使うのは、見せびらかしても恥ずかしくないものだけ」。つまり、「人前」で安物は使うな?