萌え萌え日経、あるいは人格について

安原宏美さんのblog*1からの孫引き;


空洞化する日本の自然観


-擬人化は「萌え」に変身 中外時評 4/9(日)抜粋 塩谷喜雄



 先進国の中では例外的に水と緑に恵まれてきた日本。生きとし生けるものすべて共生の相手として受け入れる擬人化の習いが、特有のゆったりした自然観を醸成してきた。今、都市化で自然が消え、ネットの仮想空間が広がり、日本的な寛容と観察の自然観は急速に空洞化している。


 ネットで「擬人化」を検索すると、なんと147万件のサイトが見つかる。ほとんどは物を女性に擬人化した「萌(も)え」の対象とするというものだ。


 萌えは架空のキャラクターに対する愛情と説明されているが、「そういわれても、なんだかなあ」という感じだ。手作りのアイドルへの擬似恋愛感情、といったところでわかったような気になるしかない。


 名前は「・・・・たん」というパターンが多く、コンビーフたん、ビスケたんなど。びんちょうタンというかわいい炭のキャラクターもある。


 長い間日本人が自然を理解し、受け入れる手段としてきた「擬人化」を身近な「物」を女性になぞらえて思いを込める手立てにしてしまった。その文明的な飛躍に驚く。ネットという空間を、仮想のキャラクターが飛び交い、意味を帯びる。イラストやアニメやフィギュアという人形で、仮想は実在化する。


 鳥獣獣画のような動物の擬人化ばかりが日本の伝統ではない。非生物を擬人化して、大河を板東太郎(利根川)、四国三郎吉野川)と呼ぶ。擬人化どころか、山川草木ことごとく神が宿るとして、山や湖や巨岩を信仰の対象にもした。


 現代の萌え擬人化と決定的に違うのは、非生物でも石、川など自然を対象にしていることだ。とげのある葉を持つ植物に「ママコノシリヌグイ」なとという名を付けるのは、人間社会の不条理な現実を、自然界の不可思議さに重ねあわせる日本的自然観の所産である。


 コンビーフやコンピューター言語など、基本的に得体の知れた人工物を擬人化して、自分が思い描ける範囲で架空のキャラクターをつくりあげる萌擬人化は伝統的擬人化の流れとは全く別。


 しかし仮想ゲームとして萌え擬人化はネット時代の新しい文化の萌芽なのかもしれない。その一方で環境の世紀にふさわしい非征服型の日本的自然感を空洞化させず、次の世代に引き継ぐ必要がある。

そして、安原さんの纏め;

ようするに、まとめるとですね。ネットでやってる「萌え〜」ってのは、「〜たん」と名前をつけて人工物に愛情表現すること。少々気持ち悪いが、人工物みたいなわかりきってるものに、「〜たん」とつけて遊んでる場合ではなく、日本は昔から「〜太郎」と川に名前をつけてきた。その精神を忘れたか(詠嘆)。あっでも、いやもしかしたら、「〜たん」はいけるかもしれない。いい手かもしれない。川に名前をつけて、「すみだたん」とか「とねたん」とか、愛情をもってそれで議論をしたら、河川の自然が復活するかも。アニメのように世界から尊敬される世界標準になる、若者がんばれ!おじさん、いいこと教えてやったぞ、という話みたいだ。
「萌え」ということの定義はそうなのかよとも思う。「擬人化」っていったって、西洋人(というよりも古代ギリシア人か)は、愛とか知といった抽象概念まで擬人化してしまったんだぞ。あるいは、「先進国の中では例外的に水と緑に恵まれてきた日本」という言説の妥当性について、また、「擬人化どころか、山川草木ことごとく神が宿るとして、山や湖や巨岩を信仰の対象にもした」というが、アニミズムはアーカイックな社会ではどこでも存在していたのではないかということは問わない。
「擬人化」ということで、〈人格〉の発生についてちょっと考えてしまった。人間として生まれたからといって、そのことが直ちに〈人格〉に繋がるわけではない。人間を端的にモノとして扱うことは可能である。というよりも、人間はモノでもある。人間が何故〈人格〉なのかといえば、呼びかけられるから、語りかけられるからである。別様に言えば、呼びかける、あるいは語りかけるという言語行為の効果として、〈人格〉は発生する。しつこいかもしれないが、呼びかけられなければ、語りかけられなければ、私たちは〈人格〉ではなくなる。「擬人化」というのは不十分である。何故なら、それは未だ意味論の領域に留まっているからだ。意味論の領域においては、他者の存在は必須のものではない。そこでは、モノローグとしての、あるいは内的発話としての言語を想定することも可能。しかし、〈人格〉は語用論の準位において可能になる。他者、言説の宛先としての他者抜きの語用論は考えられない。さらにいえば、〈人格〉を発生させる呼びかけという出来事においては、呼びかけること、呼びかけられることが重要なのであって、「擬人化」という隠喩に属するであろう修辞は必須のものではないといえる*2ちゃんとかたんとか付けなくとも、ただただ呼びかけるということによって、言語が〈呼格〉として使用されることによって、〈人格〉は発生させられてしまうことになる。

*1:http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10011172559.html

*2:あらゆる言語行為は、或るものに類似した或るものへの言及ということで、総じてメタフォリックであるとはいえるのだが、ここではそれはさておく。