「ゲス不倫」って?

週刊文春』の記事;


育休国会議員の“ゲス不倫”お相手は女性タレント

2016.02.09 12:00



 自民党の宮崎謙介衆院議員(35)が地元・京都で女性タレント(34)と不倫・密会していたことが、週刊文春の取材により明らかとなった。1月30日、宮崎議員は伏見区の自宅に東京から来た女性タレントを招き入れた。女性タレントは一泊した後に帰京した。

 この6日後の2月5日朝方、宮崎氏の妻で同じく自民党金子恵美衆院議員(37)が都内病院で無事男児を出産。宮崎氏も出産に立ち会っている。

 宮崎氏は昨年12月、自らの結婚式後の囲み取材で国会議員としては前代未聞の「育児休暇取得宣言」をぶち上げ、議論を巻き起こしていた。

「公職にある国会議員がプライベートを優先し、育休中も歳費が全額支払われるのはおかしい」といった批判も上がったが、宮崎氏は「ここまで批判があるなら、絶対に折れるわけにはいかない。女性だけに産め、働け、育てろなんて不可能だ」(毎日新聞2月2日付)と反論。女性を中心に「子育ての在り方を考え直すよい機会になる」と期待の声も大きかった。

 週刊文春は宮崎氏に電話で事実確認を求めたが、「いやいやいや。勘弁してくださいよ。どういう時期か分かってるでしょ!」と話し、一方的に電話を切った。宮崎氏は女性タレントの名前すら知らないとトボケたが、電話の直後、女性タレントのブログやツイッターから2人が会っていた1月30日と31日の記述が削除された。

 妻だけでなく、男性の育休取得を応援するすべての人の期待を裏切ったイクメン政治家の“ゲス不倫”。宮崎氏には、選良として責任ある対応が求められる。
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5859

それにしても、「ゲス」でない「不倫」というのがあるのか。
宮崎謙介の「育休」問題について拙blogで言及しようと考えたことは考えたのだけど、結局時期を逸してしまったのだった。
「選良として責任ある対応が求められる」というけど、実際、これは私的問題。つまり、宮崎謙介と、その妻である金子恵美さんと、それから宮崎の相手とされる「女性タレント(34)」の三者間問題。
まあ、ベッキー・ショック*1の余韻が消えないうちに! ということなのだろうけど、はたして、子どもが生まれたばかりのこの時期に暴露する緊急性があるのかどうかは疑問。半年後や1年後でもいいのでは?

「続編」?

Oricon Style』の記事;


『グーグーだって猫』続編6月放送

2016年2月7日


 2014年10月にWOWOWで放送されたドラマの続編『連続ドラマW グーグーだって猫である2‐good good the fortune cat‐』が製作され、6月に放送予定であることが6日、わかった。少女漫画家・大島弓子氏が一匹の飼い猫の愛しい日々をつづった自伝的コミックエッセイを原作に、女優・宮沢りえ主演、犬童一心監督の演出で映像化。前作は第41回放送文化基金賞・テレビドラマ番組奨励賞、主演の宮沢が同演技賞を受賞するなどの評価を得た。

 第2弾では、前作で描ききれなかった“グーグーとともに過ごした15年8ヶ月の間に起きた出来事”を、原作をもとにオリジナルストーリーとして作り上げる。脚本は映画『そこのみにて光輝く』で第88回キネマ旬報ベスト・テン日本映画脚本賞を受賞した高田亮氏が担当する。

 前作に引き続き、長塚圭史黒木華田中泯ら主要キャストが再集結。主人公・麻子(宮沢)と猫たちとの愛しい日々、編集者・大森(長塚)の結婚、アシスタント・ミナミ(黒木)の独立、消えたホームレス(田中)の行方などを全5話の中で描く。

 『連続ドラマW グーグーだって猫である2〜』は6月、毎週土曜午後10時に放送予定。
http://www.asahi.com/and_w/interest/entertainment/CORI2066487.html

WOWOW版の『グーグーだって猫である』を観たとき、主演の宮沢りえの、映画版*1における小泉今日子とはまた違ったやばさというか存在感が衝撃的だった。彼女は根柢にそのやばさを抱えたまま、正気へと回帰し、さらに「グーグー」の死も乗り越えていくのだが、それと比べると、 長塚圭史は何ともちゃらく見えてしまった。でも、最終回は物語を飛ばしすぎだろうと思った。だから、その後の物語としての「続編」ではなく、飛ばしすぎた最終回を補うその間の物語が作られるのはいいことだと思う。ところで、『グーグーだって猫である』は津田沼駅*2が出てくるということでも、珍しくて且つ嬉しいドラマなのだった。

生きているヒロポン

或る方が、清原和博事件*1をきっかけに知ったということで、教えてくれたのだが、「ヒロポン」は現在も「医薬品」として販売されている。


http://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00006947
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%92%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%B3
http://www.e-pharma.jp/dirbook/contents/data/seibun/115100AA1022.html


See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150711/1436638780

大きな兎

“Wanted: home for giant rabbit that could grow to 1.2m long” http://www.theguardian.com/uk-news/2016/feb/09/wanted-home-for-giant-rabbit-that-could-grow-to-12m-long


生後7か月にして「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア」*1と同じサイズまで成長したcontinental giant rabbitのAtlas君(雄)が飼い主を探しているという話*2。但し、このcontinental giant rabbitという種類、フルに成長すると、体長1.2米になる。因みに、世界最大の兎はやはりcontinental giant rabbitのDariusで、体重22kg、人間の6歳児とほぼ同じ*3
ところで、rabbitとhareの区別はよくわからないのだった。手許の英和辞典でもrabbitとhareの区別への言及はない。使えねぇ辞書だ。ピーター*4は当たり前だけど、ミッフィー*5もrabbitなわけですよね、hareじゃなくて。バックス・バニーは?
さて、


Will Coldwell*6 “Rabbit Island: a Japanese holiday resort for bunnies” http://www.theguardian.com/travel/2014/jun/02/rabbit-island-okunoshima-japan-holiday-resort-bunnies


広島県竹原市大久野島aka「ウサギ島」*7について。

Sensation/emotion(Memo)

Andrew Brown*1 “Death on the road, porn on the phone: a perfect tableau of modern loneliness” http://www.theguardian.com/commentisfree/2016/feb/08/death-porn-video-phone-loneliness-sex


些かショッキング且つ滑稽な話から始まる。先月下旬の話。早朝3時半頃、Clifford Ray Jonesという男がデトロイトの州間道路でトヨタスープラを飛ばしていた。スープラは衝突・転倒し、Jonesはサンルーフから投げ出され、即死した。警察が彼の携帯電話を復元したところ、死の瞬間、ポルノ・ヴィデオが流れていたことがわかった。また、彼はズボンを脱いでおり、オナニーをしながら運転していて、衝突事故を起こしたと推定される*2
ブラウン氏は、このClifford Ray Jonesの暴挙は「性欲(lust)」によるものではないという。そして、「感覚(sensation)」と「感情(emotion)」の区別を提示する。セックスは「感情」に関わるものであって、「感覚」に関わるものではない。そもそも「快楽」にせよ「痛み」にせよ、「感覚」それ自体は記憶されることはできず、残るのはその体験が喚起した感情である。では、Clifford Ray Jonesのような暴挙は如何に説明するのか。持ち出されるのは、「如何なる感情も感じないことへの渇望(a longing to feel no emotion)」という逆説的な「感情」*3。或いは「感情」からの逃走?


To suppose that he went out into the night to look for a sexual thrill*4seems to me to make a mistake that permeates the whole of our culture: to use sex as a symbol or metaphor for all sorts of things that it really isn’t.

In particular, we talk about sex as if it were about sensation, when actually what moves us is not sensations but emotions. Sexual sensations are part of all sorts of emotional experiences. Sex builds love, companionship and reassurance; and sometimes it builds all their opposites too: hatred, self-disgust and insecurity. But in all those cases, it’s the result that matters – the meaning, not the actions with which it’s expressed.

Sex is never memorable in itself. I mean that quite literally: we can no more remember how pleasure feels than we can remember real pain. The quality of the most wonderful orgasm, and of the pains of childbirth, are both impossible to recall. What persists is the emotions they arouse, and the networks of association that these form.

You may say that some people are thrill-seekers. “He who makes a beast of himself gets rid of the pain of being a man,” as Hunter S Thompson liked to quote. But even here, the point is not the sensation in itself, for any sensation will do so long as it is strong enough to annihilate all feeling. The purpose of such behaviour is to feel nothing: the emotion that drives it is a longing to feel no emotion – to get away from all memory and feeling.

このエッセイを読んで、一昨年読んでそのまま放置してある清水真木『感情とは何か』*5を再読したいと思った。