Untitled

承前*1

8月2日、上海浦東空港午後2時過ぎ発の中国国際航空機で成田へ。到着は日本時間6時半過ぎ。空港内で軽く食事をして、京成電車で実家へ。到着は9時ちょっと前。
浦東空港の本屋で、Harry Mount How England Made the English: From Why We Drive on the Left to Why We Don't Talk to Our Neighbours(Penguin Books, 2013[2012])とBrian Christian The Most Human Human: What Artificial Intelligence Teaches Us About Being Alive(Penguin Books, 2012[2011])。

How England Made the English: From Hedgerows To Heathrow

How England Made the English: From Hedgerows To Heathrow

The Most Human Human: What Artificial Intelligence Teaches Us About Being Alive

The Most Human Human: What Artificial Intelligence Teaches Us About Being Alive

京成電車の中で、京成のPR雑誌『京成らいん』8月号を読む。特集は「市川と京成」。その中で、八幡の京成デパートが既になくなっていること、その跡地に京成電鉄の新本社ビルが建設されていることを知る。そういえば、子どもの頃、小学校に入る前だったと思うけれど、大人たちに八幡の京成デパートの食堂に連れられて行ったのだった。食堂の窓から遠くに山が見えて、それを指さして、筑波山だと言われた。これが筑波山を見た初体験だった(あくまでも記憶によれば)。
次の日、津田沼で用を済ませて、某書店にて、4冊本を買ってしまう。


Jorge Luis Borges『詩という仕事について』(鼓直訳)岩波文庫、2011

詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)

Jorge Luis Borges『汚辱の世界史』(中村健二訳)岩波文庫、2012
汚辱の世界史 (岩波文庫)

汚辱の世界史 (岩波文庫)

朝吹真理子『きことわ』新潮文庫、2013
きことわ (新潮文庫)

きことわ (新潮文庫)

大田俊寛『現代オカルトの根源−−霊性進化論の光と闇』ちくま新書、2013

ところで、日本のTVでは最高気温30(東京都心)で、厳しい暑さと言っているのだけれど、7月の終わりから上海では最低気温が30なのだった。

A misreading

2020年のオリンピックだが、開催地を決めるIOCの最終投票は9月7日である。一時は猪瀬直樹*1の失言があったものの、イスタンブールで反政府デモとそれに対する政府の弾圧があったりして、相対的に東京は再度優位に立っているようだ。Alastair Himmer*2 "Zero Sum Games"(Metropolis August 2 2013, p.38)という文章でも、


(...) having tiptoed into the race following the 2011 tsunami and nuclear crisis, Tokyo is now the bookmakers' favorite to win it--a victory that would be almost by default. Surely the only way to screw it up is if a politician were to say something dumb and inflammatory...
と結論されている。
オリンピックとは関係ないのだが、

(...) Vending machines dispense everything from bananas to underwear. Japan boasts the highest number of machines per capita and even has contraptions at the top of Mt. Fuji. Just in case you lose your knickers on the summit.
という一節のcontraptions(仕掛け)*3という語を一瞬contraceptionsと誤読して、富士山頂でコンドームを売っているんだ! でも、果たして富士山頂でセックスするカップルが避妊するだろうか。生まれてきた子どもが大人になって、お前は富士山頂で仕込まれたんだぞと言えば、それはかなりの自慢の種になるんじゃないか、とか考えてしまった。本文に戻ると、knickers(登山ズボン)の自動販売機なんか本当にあるのか。コンドーム以上に非現実的なのでは?

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070430/1177912932 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080721/1216640236 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080729/1217311769 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090704/1246674562 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110607/1307385932 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130618/1371518971

*2:"is a former Reuters sports journalist and columnist now producing fashion and music events as head of Street Level Productions"

*3:ここではvending machines(販売機)の言い換え。

地と図(浜田寿美男)

愛のなりたち

愛のなりたち

浜田寿美男*1「反語的序文」(ハーロウ『愛のなりたち』、pp.1-13)から少し。


(前略)人間はこの「愛」という観念をどこからか引き出してきたのです。おそらく引き出してこざるをえない必然性もあったのでしょう。そして、個々具体的に生きている関係から、「愛」という観念を切り出してきたときが、人間的愛情の決定的な転換点ではなかったでしょうか。人間は、「愛」という観念にかぎらず、具体的に生きている生の世界から種々の観念を切り出し、それでもって逆に世界を記述し、割り切ってきました。このことによって、多様な関係の世界を表現し、また理解し解釈することができたのだと言えるでしょう。しかし、同時に私たちは、この観念の切り出しによって、世界との直接性を失ない、間接性を強要されて、その結果、世界との関係をまったく逆倒させてしまうことにもなったのです。
愛という関係をそのままに生きている情態から、人が「愛」という観念を手に入れ、それでもって関係そのものを規定しはじめたとき、何がどう変わったでしょうか。私はここで、観念化による関係の図地転換ということを考えてみたいと思います。こういうところで「図地」の転換などという知覚心理学的現象をもち出したりすると、場違いだと感じる人もいるでしょうし、また心理学の専門家の人びとからはあまりに杜撰な用語法だとたしなめられるかもしれません。しかし私は、知覚心理学のなかで見出されてきた「図地」という概念が、実は、知覚事態に限らず、人間の意識、さらには行動全体を記述するものとして、非常に有効だと考えているのです。(pp.3-4)
「ルビンの盃」が提示されて−−

(前略)このルビンの盃のように図地が反転してしまう事象は、きわめて特異なものです。しかし、この図地転換の現象は、私たちの知覚の特性、あるいは意識の特性、さらには行動全般の特性を非常によく示しているのです。つまり、私たちがなにかを見、なにかを意識し、なにかを行なうとき、そのなにものかの知覚、意識、行為は、ひとつの図であって、つねになんらかの地に支えられているということなのです。意識はなにものかの意識だということが言われますが、これを裏返して言いかえれば、なにものかの意識は、いつもなんらかの非意識(地)に支えられていなければならないわけです。たとえば、先のルビンの盃にしても、白い地が地としてあってはじめて盃が盃として見えるというのは、言うまでもないことでしょう。ところでが、私たちの意識はつねに図の意識であるために、案外この地の存在を忘れ、私たちの心性がもつ図地構造性を看過してしまうことになりがちなのです。
私たちの生は、図地構造のうちに成り立ち、そのうえでこそとどこおりなく流れていくのです。ですから、本来「地」でなければならないものが図化されたときなどには、それまでうまくいっていた流れが、突然ぎこちなく、途切れてしまうこともあります。たとえば、ピアノを弾くというばあいを考えてみましょう。ピアノをならいはじめた頃には、鍵盤におく自分の指の運びに注意を注がなければなりません。つまり指の運びが図化されざるをえないわけです。しかし、一定のレベルに達しますと、この指の運動は地化されて、弾くべき曲の流れそのものにうまく注意が向けられるようになってきます。指の運動という地のうえに、図としての音の流れが奏でられていくのです。しかし、もしここで奏者が、地となるべき指の運動に気をとられるようなことがありますと、当然、地となるべき音の流れは途切れ、ぎこちないものになってしまうでしょう。
(略)実際には、この指の動き自身も奏者の身体全体の姿勢、あるいはその時の気分や情緒に支えられているわけで、その意味では指の動きは、姿勢などに対してはひとつの図だと言うこともできます。(略)こうしたことは、私たちの心的生活のすべての側面にあてはまることだと言えます。私たちの生の流れにおいては、いつもなにかが中心テーマとなり、それを囲む周辺過程がそのテーマを支えているのです。いいかえれば、私たちの生は、図地構造(あるいは図地の階層構造)のうえに織り上げられているのです。
私たちは、こうした図地構造性のうえで、人との関係や物との関係を生きています。ただ、他の動物のたちのように、関係をそのまま直接的に生きることができません。その関係のなかから、私たちは観念を切り出し、関係を間接化させているからです。このことによって、私たちはそれまで生きてきた側面を、テーマとして(つまり図として)浮かびああがらせることもできるのです。私たちは、おそらく、これによって、直接的に生きただけでは得られないおおくのものを得てきたのです。しかし、その反面では、切り出されてきた観念が、新たな図性をおびて実体化し、生きた関係そのものを規定するようになったことに、注目せねばなりません。
ですから、私たちがあることがらを問題にしようとするとき、そのこと自身がすでに、私たちの生の流れのなかでそのことがらが占める位置を変えてしまうことになるのだ、という点に注目せねばなりません。問題にするというかたちで図化することが、ことがらをすっかり変容させてしまうのです。(pp.5-7)

「実名」と「匿名」(メモ)

角幡唯介「就活とフェイスブックに見る現代の優しさ 伊藤計劃『ハーモニー』を読む」『星星峡』(幻冬舎)187、2013、pp.8-18


少しメモ;


私は情報論やコミュニケーション論に関しては無知なので、これはまったくの個人的な感想に過ぎないのだが、メールやネットには優しさや傷つきたくないという感情を助長する傾向があるように思う。テレビや新聞などでよく見聞きする話であるが、中高生の間では、メル友の数を確保したいがために、メールが来たら相手を傷つけないように必ず返信するという気忙しい人間関係が結ばれているというではないか。確かに使っている者の実感としても、気の置けない友人からの何気ないメールでも、一応、返事をしなくてはいけないという心配りを求められるのがメールというツールである気がする。またフェイスブックに象徴されることだが、お互いに褒めそやしたり、いいね! と励まし合ったりするあの雰囲気はいったい何なのだろう。今日はこんな夕食食べましたとか、こんなところに出かけましたとか、およそ他人にとってはどうでもよい話にしか思えない日常の話題を写真付きで公開し、おまけに喜び合って、気持ちよくなれそうな相手に一方的に友達リクエストなるものを送って交際を求めるという、あの訳の分からない空間の魅力が私にはさっぱり理解できないのだが、あれなどは典型的な優しさ、気持ちよさ蔓延ツールであろう。
フェイスブックが優しさや気持ちよさで溢れているのは、実名が前提なので本音や人の悪口が書けないからである。ネット社会では本音や悪口は匿名で書くものだ。ネットの書き込みが好きになれないのは、表では気持ちよさそうなことばかり言い合っているくせに、裏では匿名で人間の最悪の部分を露骨なほど見せびらかして相手を徹底的に攻撃するところである。職業柄これは特にアマゾンのレビューに対して思うのだが、言いたいことがあるなら実名で書けばいいのに、そこまでの気概がないから裏でこそこそ卑怯なことを書くのがネット社会の住人の特徴だ。今更言っても詮無いことではあるが、要するにネットとかメールというのは、実名で書く表向きの部分は優しさと思いやりで溢れており。相手を傷つけないように、自分も傷つかないようにという馴れ合い、かつ気持ちのいい感じで人間関係を成立させる一方、そこからハミ出した悪口や露骨な本音や誰かを傷つけるような言動は、表の実名社会からとりあえず排除し、匿名で散々やるという、裏表がきっちり分かれた情報社会なのだと私は認識している。(pp.15-16)
ネットにおける「実名」と「匿名」に関しては色々なことが言われ、私も時々は発言してきたのだが*1、「実名」と「匿名」の相互補完性*2を指摘する角幡氏の議論は、その論の是非はともかくとして、興味深い。
このテクストは伊藤計劃の『ハーモニー』についての文章であって、角幡氏は、「ジョージ・オーウェルの『1984』*3ビッグブラザーという政治権力が作り上げた監視社会を描いたSFであるなら、『ハーモニー』は優しさという私たち自身の中から内発的かつ選択的に発生した価値が正義を帯びた主義に変わり、政治権力を持った監視社会を描いている」というのだが(pp.16-17)、そもそも『ハーモニー』という本を未だ読んだことがないので、この評の妥当性については何もいえない。
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)