地と図(浜田寿美男)

愛のなりたち

愛のなりたち

浜田寿美男*1「反語的序文」(ハーロウ『愛のなりたち』、pp.1-13)から少し。


(前略)人間はこの「愛」という観念をどこからか引き出してきたのです。おそらく引き出してこざるをえない必然性もあったのでしょう。そして、個々具体的に生きている関係から、「愛」という観念を切り出してきたときが、人間的愛情の決定的な転換点ではなかったでしょうか。人間は、「愛」という観念にかぎらず、具体的に生きている生の世界から種々の観念を切り出し、それでもって逆に世界を記述し、割り切ってきました。このことによって、多様な関係の世界を表現し、また理解し解釈することができたのだと言えるでしょう。しかし、同時に私たちは、この観念の切り出しによって、世界との直接性を失ない、間接性を強要されて、その結果、世界との関係をまったく逆倒させてしまうことにもなったのです。
愛という関係をそのままに生きている情態から、人が「愛」という観念を手に入れ、それでもって関係そのものを規定しはじめたとき、何がどう変わったでしょうか。私はここで、観念化による関係の図地転換ということを考えてみたいと思います。こういうところで「図地」の転換などという知覚心理学的現象をもち出したりすると、場違いだと感じる人もいるでしょうし、また心理学の専門家の人びとからはあまりに杜撰な用語法だとたしなめられるかもしれません。しかし私は、知覚心理学のなかで見出されてきた「図地」という概念が、実は、知覚事態に限らず、人間の意識、さらには行動全体を記述するものとして、非常に有効だと考えているのです。(pp.3-4)
「ルビンの盃」が提示されて−−

(前略)このルビンの盃のように図地が反転してしまう事象は、きわめて特異なものです。しかし、この図地転換の現象は、私たちの知覚の特性、あるいは意識の特性、さらには行動全般の特性を非常によく示しているのです。つまり、私たちがなにかを見、なにかを意識し、なにかを行なうとき、そのなにものかの知覚、意識、行為は、ひとつの図であって、つねになんらかの地に支えられているということなのです。意識はなにものかの意識だということが言われますが、これを裏返して言いかえれば、なにものかの意識は、いつもなんらかの非意識(地)に支えられていなければならないわけです。たとえば、先のルビンの盃にしても、白い地が地としてあってはじめて盃が盃として見えるというのは、言うまでもないことでしょう。ところでが、私たちの意識はつねに図の意識であるために、案外この地の存在を忘れ、私たちの心性がもつ図地構造性を看過してしまうことになりがちなのです。
私たちの生は、図地構造のうちに成り立ち、そのうえでこそとどこおりなく流れていくのです。ですから、本来「地」でなければならないものが図化されたときなどには、それまでうまくいっていた流れが、突然ぎこちなく、途切れてしまうこともあります。たとえば、ピアノを弾くというばあいを考えてみましょう。ピアノをならいはじめた頃には、鍵盤におく自分の指の運びに注意を注がなければなりません。つまり指の運びが図化されざるをえないわけです。しかし、一定のレベルに達しますと、この指の運動は地化されて、弾くべき曲の流れそのものにうまく注意が向けられるようになってきます。指の運動という地のうえに、図としての音の流れが奏でられていくのです。しかし、もしここで奏者が、地となるべき指の運動に気をとられるようなことがありますと、当然、地となるべき音の流れは途切れ、ぎこちないものになってしまうでしょう。
(略)実際には、この指の動き自身も奏者の身体全体の姿勢、あるいはその時の気分や情緒に支えられているわけで、その意味では指の動きは、姿勢などに対してはひとつの図だと言うこともできます。(略)こうしたことは、私たちの心的生活のすべての側面にあてはまることだと言えます。私たちの生の流れにおいては、いつもなにかが中心テーマとなり、それを囲む周辺過程がそのテーマを支えているのです。いいかえれば、私たちの生は、図地構造(あるいは図地の階層構造)のうえに織り上げられているのです。
私たちは、こうした図地構造性のうえで、人との関係や物との関係を生きています。ただ、他の動物のたちのように、関係をそのまま直接的に生きることができません。その関係のなかから、私たちは観念を切り出し、関係を間接化させているからです。このことによって、私たちはそれまで生きてきた側面を、テーマとして(つまり図として)浮かびああがらせることもできるのです。私たちは、おそらく、これによって、直接的に生きただけでは得られないおおくのものを得てきたのです。しかし、その反面では、切り出されてきた観念が、新たな図性をおびて実体化し、生きた関係そのものを規定するようになったことに、注目せねばなりません。
ですから、私たちがあることがらを問題にしようとするとき、そのこと自身がすでに、私たちの生の流れのなかでそのことがらが占める位置を変えてしまうことになるのだ、という点に注目せねばなりません。問題にするというかたちで図化することが、ことがらをすっかり変容させてしまうのです。(pp.5-7)