「実名」と「匿名」(メモ)

角幡唯介「就活とフェイスブックに見る現代の優しさ 伊藤計劃『ハーモニー』を読む」『星星峡』(幻冬舎)187、2013、pp.8-18


少しメモ;


私は情報論やコミュニケーション論に関しては無知なので、これはまったくの個人的な感想に過ぎないのだが、メールやネットには優しさや傷つきたくないという感情を助長する傾向があるように思う。テレビや新聞などでよく見聞きする話であるが、中高生の間では、メル友の数を確保したいがために、メールが来たら相手を傷つけないように必ず返信するという気忙しい人間関係が結ばれているというではないか。確かに使っている者の実感としても、気の置けない友人からの何気ないメールでも、一応、返事をしなくてはいけないという心配りを求められるのがメールというツールである気がする。またフェイスブックに象徴されることだが、お互いに褒めそやしたり、いいね! と励まし合ったりするあの雰囲気はいったい何なのだろう。今日はこんな夕食食べましたとか、こんなところに出かけましたとか、およそ他人にとってはどうでもよい話にしか思えない日常の話題を写真付きで公開し、おまけに喜び合って、気持ちよくなれそうな相手に一方的に友達リクエストなるものを送って交際を求めるという、あの訳の分からない空間の魅力が私にはさっぱり理解できないのだが、あれなどは典型的な優しさ、気持ちよさ蔓延ツールであろう。
フェイスブックが優しさや気持ちよさで溢れているのは、実名が前提なので本音や人の悪口が書けないからである。ネット社会では本音や悪口は匿名で書くものだ。ネットの書き込みが好きになれないのは、表では気持ちよさそうなことばかり言い合っているくせに、裏では匿名で人間の最悪の部分を露骨なほど見せびらかして相手を徹底的に攻撃するところである。職業柄これは特にアマゾンのレビューに対して思うのだが、言いたいことがあるなら実名で書けばいいのに、そこまでの気概がないから裏でこそこそ卑怯なことを書くのがネット社会の住人の特徴だ。今更言っても詮無いことではあるが、要するにネットとかメールというのは、実名で書く表向きの部分は優しさと思いやりで溢れており。相手を傷つけないように、自分も傷つかないようにという馴れ合い、かつ気持ちのいい感じで人間関係を成立させる一方、そこからハミ出した悪口や露骨な本音や誰かを傷つけるような言動は、表の実名社会からとりあえず排除し、匿名で散々やるという、裏表がきっちり分かれた情報社会なのだと私は認識している。(pp.15-16)
ネットにおける「実名」と「匿名」に関しては色々なことが言われ、私も時々は発言してきたのだが*1、「実名」と「匿名」の相互補完性*2を指摘する角幡氏の議論は、その論の是非はともかくとして、興味深い。
このテクストは伊藤計劃の『ハーモニー』についての文章であって、角幡氏は、「ジョージ・オーウェルの『1984』*3ビッグブラザーという政治権力が作り上げた監視社会を描いたSFであるなら、『ハーモニー』は優しさという私たち自身の中から内発的かつ選択的に発生した価値が正義を帯びた主義に変わり、政治権力を持った監視社会を描いている」というのだが(pp.16-17)、そもそも『ハーモニー』という本を未だ読んだことがないので、この評の妥当性については何もいえない。
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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