「紅廟藝術」その他

話は6月15日に遡る。午後2時に広西北路の「新光迎賓館」のロビーに集合して、上海大学へ向かうということで*1、その前に久しぶりに南京東路辺りに行くということで、久しぶりに「頂層画廊(The Room with a View)」*2に行った。胡行易の「超級部落/人類動物園(Super Tribe—Human Zoo)」。胡行易という画家は3月にStir Art Galleryで”Unidentified”という個展を観たばかり*3。その時の作風は「擦硝子のように靄がかかった前景の向こうに判別不能な人の顔が見える」という「抽象画」だった。今回はそれが一変して、具象画・寓意画になっている。狒狒(baboon)である。胡行易はデズモンド・モリスの『裸のサル』にインスパイアされたという*4

裸のサル―動物学的人間像 (角川文庫)

裸のサル―動物学的人間像 (角川文庫)

 なお、「頂層画廊」のオープンは3時からなのだが、まあまあちょっとという感じで図々しく観てしまった。
それから、南京東路の裏、「石潭弄」というところで、新しい画廊を見つける――「上海紅廟藝術」。知らなかったのだが、この場所にかつて道観があり、「紅廟」と呼ばれていたが、文化大革命で破壊された。そこが画廊になったのである。入ってみると、道観の構造が忠実に残されている。やっていたのは、杭州の中国美術学院の研究生(大学院生)のグループ展。日常を異化する感じの具象画が中心。
「紅廟」について、『上海宗教通覧』*5から記述を写してみる;

保安司徒廟 在南京東路496号。原為佛寺、建於明万暦年間、清康煕末年典賣毘隣淞南道院張姓道士、改為道観。此後到1966年、住持由張姓道士世傳。上海開埠後、廟基多次縮小、香火日盛。香客多舞女、妓女、商人、尤崇観音。因内外墻刷紫紅色、俗称紅廟。廟宇有3進、第一進為山門;第二進中間為霊官殿、東為城隍殿、西為土地堂、東側為星宿殿、西側為猛将殿;第三進中間為観音大殿、東側為関帝殿。大天井中有清代鋳鉄香鼎、重1.5〓*6、高4.5米;錫燭台香炉、重1〓*7多、高2.5米。夏天施診給薬、冬天施米施棺。1937年上海淪陥後、上海不少道観被日偽封鎖、紅廟香火之旺冠全市佛、道教寺観之首。1946年、重組廟董事会、杜月笙、王曉籟任正、副董事長。解放初、香客一度減少、1953年後又増。1955年、有道士1人、香夥13人、占地672平方米。1959年、日有香客約700人、逢朔、望有2000至3000人、春節有20025人。1963年春節進廟者38641人次。1964年9月、廟門改開於石潭弄。1965年春節焼香3620人、多老年婦女。1966年関閉、殿宇移作他用。1993年、市道教協会収回部分産権、房屋出租(pp.226-227)。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070615/1181863457

*2:http://www.topart.cn/

*3:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070317/1174107205

*4:Cf. ZHOU Tao “The baboon side of being human” Shanghai Daily 9-10 June 2007

*5:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139276175

*6:くちへん+屯。

*7:くちへん+屯。

俗情の市場価値

http://www.ganbareusui.com/


渋谷知美さんのblog*1で知る。また、http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20070623/1182541435http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070623/1182605699も参照されたい。
東京都下の東村山市で、矢野穂積朝木直子という2人の市会議員が薄井雅美という市会議員が「風俗記者」であったことを以て、それが「セクハラ」に中たるとして、議員「辞職勧告」をしているという。色々と関連のテクストに目を通した限りでは、矢野と朝木の所業というのはたんなるいじめ・嫌がらせでしかないと思った。また、この2人の発想・所業がそもそも職業差別・業種差別であるという多くの人の指摘は全くその通りだと思った。
この度の矢野と朝木の発言を一言で言えば、〈俗情との結託〉ということになるのだと思う。このことだけじゃなくて、政治家がお馬鹿な発言をする場合、考えてみなければいけないのは、この〈俗情との結託〉ということである。いくら批判されたとしても、政治家は自分の発言は支持されているぞという自信みたいなものがあるのだろう。市町村会議員にせよ国会議員にせよ、政治家が政治家として延命しているのは、有権者(消費者)がどんなものを望んでいるのか、つまり〈市場の声〉みたいなものを察知して、有権者(消費者)が聞きたい(消費したい)言説を提供しているからだろう。つまり、1人の政治家のトンデモ的な発言の背後にはそれに共鳴する一群の有権者(消費者)を予想しなければならないわけだ。ここで、plausibility structureという社会学用語を持ち出してもいいのだが。
だから、残念ながら、今回のいじめ・嫌がらせのトンデモ発言はそれなりの支持基盤があるのだろう。レトリックとして見ると、先ず世界の中の存在者は、きれい(無標)/きたない(有標)というふうに分類される。セクシュアリティは後者に振り分けられるが、問題なのはセクシュアリティなくして社会の再生産は不可能だということである。そのせいかどうか知らないが、セクシュアリティは再度きれいなセクシュアリティ/きたないセクシュアリティというふうに分類される。また、ここできれい/きたないという対立は正しい/間違ったという対立が重ねられるということもあるのかもしれない。今回いちゃもんがつけられたという「風俗」は後者に振り分けられるということになるのだろう。また、言っておかなければならないのは、きれい(正しい)という項は無標であり、きたないとか間違ったという有標な項が定立されて、初めてその否定項として自らのアイデンティティが確定されるということだ。
世界をこのように分類する俗情がそれなりの市場になっているということは、ジェンダー・フリーやら性教育やらに対するバッシングやバックラッシュが横行していることからもわかる。ややこしいのは、そのような明らかに右翼的な語彙が使われるだけでなく、左翼的であったりフェミニズム的であったりする語彙が使われることもあるということだ。今回の言いがかりはまさにその例であろう。そういえば、私も以前「カマトト」な(或いはそれを装った)〈左翼blog〉をちょっとおちょくったら、ちょっとアレなコメントを頂戴したということがございました*2

ところで、朝木と山崎という人名と東村山という地名で、思い出したのだが、1995年に創価学会絡みで事件があって、その当事者でもあったわけだ*3。この事件については、真相を知らないので、何も申し上げない。しかし、この2人が今回寄せられた批判は創価学会の陰謀だと言い出すとしたら、それは見当違いである。「正直言って、このバカ議員2匹は玉川上水に身投げするか、奥多摩でクビ吊って死んだほうがいいんじゃないんだろうか」とまで言っているmuffdivingさんは明らかに創価学会に対してはアンチのスタンスを取っている人だからだ。

Ethnocentrism—Richard Rorty

承前*1

 YONG Huang “Rorty: Controversial contradictor of conception of truth” Shanghai Daily 16-17 June 2007


筆者のYONG Huangは米国ペンシルヴァニア州のKutztown Universityの哲学教授。
テクストの中から、ローティが自分はethnocentristだと主張したことを巡る件;


This claim, for Rorty, is not normative but descriptive: Whether you like or not, everyone is an ethnocentrist—we can make value judgment only according to standards that we accept.
To acknowledge this fact can help us realize the limitation of our own standards and therefore reweave our own standards.
これはローティのいう「反語(irony)」であり、ローティにとっては(この意味で)ethnocentristであることとcosmopolitanであることは矛盾しない――”Moral progress is made by gradually expanding the circle who we prefer to refer to as “we” rather than “they.””