名前は自分のためにあらず(メモ)

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』、II「共同相互存在の構造分析」第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第3節「「生」の四つの根本的意義とその連関」の続き。
生の「四つの根本的意義」のうち「共同相互存在」としての生について。
「伝記的に意味をもつ固有名が人間に固有のなまえであるのは、たんに見かけにすぎないのだ」(p.69)――


子どもが以後その名を身に帯びることになるのは、けっしてじぶん自身のためではなく、他者たちのためである。つまりその名は、他者たちによって呼ばれうるためのもの、他者たちのまえでじぶんを照明しうるためのもの、他者たちのために署名しうる等々のための或るものなのである。じぶんのなまえを捨てた者でも、その者が共同世界において現に存在していることが――もちろんじぶんに固有の現存在がではなく――、べつのなまえをじぶんに付与することを暗黙のうちに強制する。いわゆる固有名(Eigenname)とは、かくしてふたつの意味で他者の名(Fremdname)である。さしあたり他者たちに与えられたものとしても、他者たちのためにさだめられたものとしても、他者のなまえなのである。或る人物にとってほんとうに固有の名は、もっぱら一人称の人称代名詞、すなわち《私》である。このいわゆる代−名詞(Pro-nomen*2)だけが各人にそれぞれぞくする。一般化された「〈私〉なるもの(Das Ich)」あるいは「〈ぼく〉なるもの(Der Ich)」は「たんなる〈きみ〉(Das Du)」同様、意味に反した語りかたなのだ。《私》はただ「私があるbin」としてのみある(ist)、つまりそのつど固有の一人称としてだけあるからである。或る者自身にとっては、その呼び名もじぶんに固有のものではないことをもっともよく証明するのは、「そこにいるのはだれ?」という他者の問いに対して、思わず「私」(です)と答えてしまうという事情である。根源的にいえば、ひとはその固有の名で他者に知られているのであって、じぶん自身にとってはその名では知られていないからである。(略)じぶんをなまえで語ることが子どもにおって可能であり自然であるのは、子どもは自身にとってなおまったく〈私〉ではなく、したがってじぶんについて名を挙げて三人称で語りうるために、すこしも自己を疎外する必要がないからである。これに対して、すでに「私である(bin)」というしかたをしている(ist)者にとっては――たとえば会合での自己紹介でよくおこなわれるように――なまえを使って自己をしるしづけるたびに、それは人為的な自己疎外を意味する。というのも、じぶんの名を使ってじぶん自身を紹介するとき、ひとは自己自身であるにもかかわらず、じぶんについて他者のように語ることになるからだ。(pp.69-71)
既に「私」を確立した大人にとって、名前を主語として自分自身を三人称で語ることは「自己疎外」になる。日本人の感覚だとどうだろうか。

さっちゃんはね
さちこっていうんだ、ほんとはね
だけどちっちゃいから
じぶんのこと
さっちゃんってよぶんだよ
おかしいね
さっちゃん
阪田寛夫も、「じぶんのこと」を「さっちゃんってよぶ」ことを「おかしいね」といっているのであって、名前を主語として自分自身を三人称で語ることそれ自体を「おかしいね」といっているわけではない。もし、「さっちゃん」が自分のことを「さちこ」と呼び始めたら、「さっちゃん」も成長したねということになるのだろう。
また、「じぶんのなまえを捨てた者」について、註にて曰く、

或る者が、それまでのじぶんの共同世界から完全にみずからを切りはなすために、さまざまな偶然の事情を利用し、じぶんで付けた新しい名で生きつづけたとしても、その者が世界にとどまっているだけで、その生きかたの細部にいたるまで――新しいなまえを付けるだけですでに!――共同世界をどれほどまでに考慮するように強いられるか。これがピランデッロの哲学的小説『生きていたパスカル』(Il fu Mattia Pascal)にあって精緻に展開されたモティーフである。(p.73)
この小説は読んだことがない。
ここで、(バーガー&ルックマンのSCRの真似をして)命名社会学的意味についてはレヴィ=ストロース『野生の思考』の参照を指示しておく。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080827/1219808453も参照のこと。
Social Construction Of Reality (Penguin Social Sciences)

Social Construction Of Reality (Penguin Social Sciences)

野生の思考

野生の思考

「伝記の主題となる「生」の意味」を巡って;

伝記とは「他者の生を理解する文学形式」(ディルタイ『全集』第七巻、二四七頁)なのだから、伝記的に描かれた生そのものも、その生の外化〔表現〕の個別的な細部にいたるまで、なによりも個人が有する同時代の生の−関係によって規定されている。シュライエマッハーの「ただの生」をかたちづくっているこの生は、それではいったいだれなのかという問いには、この一者(Ein)が他者(Ander)に対して有する生の関係、両者の共同相互的なありかたから答えられる。互いに−共に−在ることによって中性化されて、個人の生は、未規定的に−規定された、生が生であるありかたとなる。私たちがたんなる生なのである。個人が他者たちとりむすぶ生の連関によって、固有の種類の生がかたちづくられる。個人の現存在は共同相互存在のうちでこのように中立化されるが、このことは、たんなる生という言語的に中性(neutral)の冠詞が有する、事象からして中立的(neutral)な意味そのものにおいて告げられている。生の経験、生を知ること、生の諸要求を充たすこと等々といった表現のすべてが捕らえているのは、互いに共に在ることでこのように根源的で中立化された生である。こういった表現がふくむ意味で経験や知識を有したり、満足を与えたりすることのできる生は、各人に固有の生ではない。共同相互存在という意義方向(3)における生なのである。個々人としてのひとは、そうした生をめぐっておよそすこしも経験と知識をもつことができない。(pp.71-72)