尻拭いその他

承前*1
〈麻原の次男〉問題については、kenji47さんのhttp://blog.livedoor.jp/kenji47/archives/50299446.htmlが明快かと。

mimiさん、partygirlさん、コメントありがとうございました。
国からの「助成金」と「学校法人」の「認可」問題ですね。私見を述べさせていただくと、この問題と「助成金」の問題とは取り敢えず切り離して考えるべきだと思います。「助成金」とは関係なく、学校による今回の〈入学拒否〉は、裁判沙汰になったら、通らないと思います。それから、「学校法人」ですから、以前からこの制度は全く性格の違う2つを混同しているんじゃないかと思っていました。税的な優遇と学位や学歴の認証の2つです。「助成金」を受けているのだから云々、「認可」されているから云々というロジックは、教育や研究に対する上からの介入に道を拓く可能性もあり、私としては、ここで言及することは躊躇します。
〈悪しき学校〉は上からの行政的処分ではなく、市場的に淘汰されるべき、というかその方が健全だと思いますが、多分問題になるのはその〈市場〉の方だろうとは思います。学校や校長が批判の的になっていますが、それが過ぎると、重要な批判対象を見逃してしまい、結局有効性を欠いてしまうのではないかと思います。校長といえども組織の歯車の一つでしかないということもありますが、この人たちが自らの主張の正当性の根拠として準拠するのが、「保護者」とか或いは一般国民とかいった項です。「問題になるのはその〈市場〉の方だろう」といったのはそういう意味です。その「保護者」などへの批判というのは必須なのですけど、それはさて措いて、kmizusawaさんがブックマークでコメントしているように、ここで対立しているのは、個人の人権と組織としてのサヴァイヴァルです。なので、後者の論理を取り敢えず認めた上で、それに伴うリスクを指摘し、天秤にかけさせるという理路を採った方が現実的なのではないかと思われます。
それから、新自由主義と「尻拭い」ですけれど、もうちょっと言い足します。教育において市場原理が導入されるのは、一見すると望ましいように思われます。何しろ、(受益者負担という原則はあるものの)良質な教育の選択肢が増えるわけですから。しかし、教育機関としては、常に市場に対して自らの提供する商品の品質をアピールしなければいけません。ここで重要なのは、教育においては生徒は消費者であるとともに商品でもあるということです。だから、出来の悪い、問題のある生徒は、ちょうど不良品を排除するのと同じ仕方で排除しなければならない。それで、排除された生徒を受け入れるのは公立学校或いはやはり公立(官立)である諸々の矯正施設ということになります。ここに見られるのは、よりよい商品の獲得という私的な善に伴う負の側面が公的なものに回付されるという図式です。言い換えれば、得をするのは一部の人であるのに、損をするのは全員ということです。また、私的なゲインが増えれば増える程、公的な損失というのも増えていく(さらに、公立学校の教育環境が悪化する)。それはさらに人々に〈選択の自由〉を行使せしめるべく動機づけていくわけですが。さらに問題なのは、自らの保有する経済的その他の資源の事情によって、〈選択の自由〉を行使できる人とできない人がおり、後者の教育環境はさらに悪化するということです。
このような損得が予想されるわけですが、これを受け入れるかどうかということは、これとは別の問題ではあります。