春節はすぎて

昨晩は久しぶりに爆竹の音が喧しかった。元宵節(小正月)。これで名実ともに正月は過ぎたということになる。ということで、昨晩は慣習に従って、湯圓を食べる。

ところで、日曜日、嘉善路のLOFT1階にある「上海上海」で食事。その内装はポップなシノワズリが充ちていてよい。味は上海料理ながら、四川料理を取り入れたもの。

『現象学十四講』

買った本。

洪漢鼎『重新回到現象学的原点――現象学十四講』人民出版社、2008


序言 重新回到現象学的原点
第一講 哲学史古代、近代與当代的区分 当代哲学的両大傾向:分析哲学現象学
第二講 再論当代哲学的両種傾向或運動:分析哲学現象学
第三講 胡塞爾現象学的三個時期、他的著作介紹
第四講 現象学所講的現象 当代現象学與以往的現象学的区別
第五講 何謂現象学的本質與本質直観
第六講 現象学所講的観念或艾多斯*1観念−詞的哲学史
第七講 現象学最初目標――哲学作為厳格的科学
第八講 現象学指導原則――面向事情本身
第九講 現象学根本方法――現象学還原
第十講 時間性分析――現象学還原典型例証
第十一講 現象学特徴之一――意向性
第十二講 現象学特徴之二――明見性
第十三講 現象学特徴之三――構成性
第十四講 現象学最後帰宿――生活世界與先験自我


参考文献
後記

Untitled

http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090125/p1


「女にアラフォーはあっても、男にはアラフォーはない」? という話なのだが。取り敢えず、


(前略)消費社会化の進展に伴って各自のライフスタイルが多様化していくと、それこそエリクソンアイデンティティの話でモデル化したような、標準的な成熟のステップというものが通用しなくなる。このとき、女性の方が、まだしも生殖の問題と関連づけて、成熟のステップを構想しやすいのにたいして、男だとそうした手掛かりを見つけるのが難しい。家庭をもって一人前なんて発想はもう絶滅しかかってるでしょう。なんだかんだいっても女性の方が相対的に人生をリセットしやすいのだ。そのうえ、女性の場合、80年代から非正規雇用の増大と結びついて社会へ出ていくようになったわけだが、男の非正規雇用の増大は周回遅れのロスジェネ世代。つまり、ライフスタイルの多様化への適応も遅れていると言える。学生を見ていても、明らかに男の方が女性よりも元気がなく幼いと感じることが圧倒的に多い。

 というわけで、男の方が「成熟」のステップを見つける手掛かりに乏しい以上、「成熟」を求めるならば、そのやり方を自分自身で編み出していくしかない。となると、その分だけコストも大きい。下手すると、中学高校時代の行けてない自分を一生背負ったまま生きていかなきゃならないなんてことになりかねない。そして、たいていはそのままずっと来てしまうわけだ。そういう意味では、アラフォー問題って更年期障害に似ている。女性は意識しやすいけれど、男はたいてい意識しないでやりすごしてしまえる。とかいっていたら、最後は「男の方がかわいそうだね」って話になった。んー、やっぱりそうだったのか。

という部分を切り取っておく。
たしかに、再帰性、自己客体化の要請というか、近代社会では自明なままに歳を重ねることは困難になっている。そのひとつの表れが、例えば小林多寿子さんなどが述べている、ライフ・ヒストリー(自伝)への欲望の増大ということになるのだろう。「消費社会化の進展」を含む社会変動が労働世界への参入や生殖家族(family of procreation)の形成という「成熟」の結節点をますます曖昧化しているということもその通りなのだろう。
ただ、「男はたいてい意識しないでやりすごしてしまえる」のか。以前宮台真司氏(『野獣系でいこう!!』)が述べていたオヤジのハルマゲドン的ユートピアとしての「心中」(『失楽園』幻想)というのがあったけれど。それはともかくとして、何らかの行為的な表出(acting out)はあっても明確に意識化されないということか。つまり、(以前よりは空洞化しているとはいえ)近代社会(産業社会)的な役割構造に守られることによって、再帰性、自己客体化の要請から(あくまでも相対的であるにすぎないが)逃れられているということ。村上春樹の『国境の南、太陽の西』の主人公は幾分か意識化しているのだろうけど、『ロスト・イン・トランスレーション』のビル・マーレイはどうなのか*1。そういえば、昔は「四十八歳の抵抗」という言葉もあった*2
野獣系でいこう!! (朝日文庫)

野獣系でいこう!! (朝日文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

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ボク自身は、「成熟する」ということが、たとえフィクションであったとしても、まだ今の段階ではそれを「演じる」ことの意味はあるんじゃないか、少なくともそれが必要とされる場面がある思っている[sic.]。だって、何の責任もとれない上司とか、いつまでたっても小娘みたいなおばさんの相手をするのは嫌だよ。
大林宣彦の(伊勢正三の同名の歌をベースにした)『22才の別れ』は、〈断念〉によって〈成熟〉を引き受ける物語。

リバーズ・エッジ

リバーズ・エッジ

さて、岡崎京子リバーズ・エッジ』と『スタンド・バイ・ミー』の対比は興味深い。『リバーズ・エッジ』は初版を読んだのだが、それと「愛蔵版」というのはどう違うの?
成長言説を巡ってはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080411/1207900427にてよしなしごとを書いていた。

*1:ロスト・イン・トランスレーション』をビル・マーレイの「中年危機」を中心に解釈することについては、例えば湯禎兆『整形日本』(See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070129/1170047831 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070805/1186341960)、p.127ff.を参照されたい。

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081211/1228971729

TOEICが350

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090107/1231303330に関係するか。
内田樹氏曰く、


現在の日本の平均的な大学生新入生のTOEICスコアーはたぶん350点くらいである。
これは中学2年生程度の英語力である。
中学高校で6年間英語を勉強してきて、その結果、中学2年生程度の学力しか身につけずに済ませるというのは、よほどつよい動機付けがなければ達成できることではない。
これは教育方法が間違っているとか、教師に教育力がないからだと言ってすませることのできるような事態ではない。
http://blog.tatsuru.com/2009/01/20_1010.php
そうなんですか。これが事実だとして、これは以前からのことなのか、それとも最近の現象なのか。それも問題であろう。その原因について、内田氏は

競争において相対優位を占める「努力」に適正な「報酬」を約束するという「努力=報酬相関システム」の導入によって、日本の子供たちは勉強することを止めた。
利益誘導によって、私たちは子供たちに「学力そのものには何の内在的な価値もなく、それによって得られる報酬こそが一次的に有用なのである」という信憑を刷り込んでしまったからである。
その結果、子供たちは「学力を身につけること」よりも、「学力による序列付けで高いポジションを得ること」を優先させるようになった。
努力の「費用対効果」を配慮すれば、競争における相対優位を得る方法は一つしかない。
それは同学齢集団(競争相手)全体の学力を低下させることである。
黙って勉強して、自分一人の学力を向上させる努力は自分にしかかかわらないが、教室で私語し、立ち歩き、学級崩壊を達成すれば、クラス全員の学習意欲を損ない、動機付けを傷つけることができる。
「自分の学力を上げる」よりも、「他人の学力を下げる」方が圧倒的に費用対効果がよい。
競争における相対優位を「目的」にすれば、子供たちは必ずそのような合理的判断に導かれる。
そして、現に導かれた。
子供たちの学習意欲と動機付けを阻害しているのは、学ぶことそれ自体には何の意味もなく、意味があるのは競争と選別であるというイデオロギーそのものである。
と述べる。たしかに、これは大筋としては間違っていないのだろう。少し前にネット上で話題になったように、学問外的な有用性を超えて「勉強」に熱中するような人は却って「勉強」オタクとして蔑まれるという傾向もある*1。但し、これは専ら〈日本的〉といえる現象でもないだろう。また、「教室で私語し、立ち歩き、学級崩壊を達成」するガキが(マジで)「同学齢集団(競争相手)全体の学力を低下させる」陰謀を企んでいるということはリアリティに欠ける。ぶっちゃけた話、〈動物〉に陰謀は不可能だ。
学力低下をもたらした元凶として内田氏が糾弾する勉強観においては、勉強は勉強外の目標に対する手段として位置づけられることになる*2。手段−目的連鎖といえば、マートンアノミー論(『社会理論と社会構造』)*3マートンによれば、アノミーは(社会的に正当化された)目標と(社会的に正当化された)手段との自明な連鎖が自明ではなくなったときに起こる反応だということになる。例えば、強盗は金を稼ぐという(社会的に正当化された)目標の、社会的に正当ではない手段による追及。まっとうな労働や商売で金を稼ぐという(社会的に正当化された)目標と手段の連鎖の自明性が崩れれば、さらにまっとうな労働や商売で金を稼ぐことはできないというふうに(社会的に正当化された)目標と手段の連鎖に対する否定的な判断が広まれば、(強盗をやるという人はやはり稀だろうが)社会的に正当ではない手段による目標の追及がより顕著になるというのはわかりやすい道理だ。しかし、アノミーはそれだけではない。(社会的に正当化された)目標のリアリティが希薄になり、遂には放棄されるということもある。異性にモテる人とモテない人との格差の増大という状況に対しては、恋愛や結婚や性愛という(社会的に正当化された)目標の放棄という反応が起こる可能性があり、実際に起こっている*4学力低下問題にもそれは当て嵌まらないだろうか。勉強すれば将来いいことがあるというルアーが子どもを勉強、さらには学校的秩序に繋ぎ留めておくルアーとして機能しないこと。
社会理論と社会構造

社会理論と社会構造

また、内田氏が「英語」について専ら語っているので、英語に限定して、学力低下(昔からの話だとすれば学力停滞)の原因を考えてみれば、そのひとつは(内田氏もいっていた)文化産業の「国内市場」問題だろう*5。つまり、外国語ができなくとも、労働、娯楽、教養において全然用が足りるということ。そのような状況では、英語のみならず外国語の習得の目標としての価値は低下する。
なお、ここに書き連ねたことはたんに理論的な可能性の話にすぎなく、実証的な根拠に基づくものではない。

ところで、http://blog.tatsuru.com/2009/01/27_0907.phpは、三上治三上寛を取り違えた話。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1 also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090113/1231812154

*2:勿論、手段−目的連鎖は(原理上)無限に続く。そして、〈役に立つって何の役に立つの?〉という問いには誰も答えられない。

*3:デュルケームのいうアノミーと混同すること勿れ。デュルケームアノミー論については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070112/1168571361も参照されたい。

*4:マートン命名によれば、「逃避主義」。ここではマートンのいう「儀礼主義」については言及しなかった。

*5:http://blog.tatsuru.com/2009/01/05_1110.php See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090108/1231386781 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090109/1231531269 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090130/1233314378