今年初の満月の日。取り敢えず、これをもって正月は終わりということになる。天気予報によれば、最高気温16度まで上がる筈なのだが、とてもその兆しは見えず。豫園エリアは商店街に入るのに入場料を取るという仕方で人出を規制するらしい*1。外出はせず、自宅で冷凍の「湯圓」を温め、伝統を守る。H夫妻からお誘いがあったので、夕食は復興路のLa Vita*2で。H夫妻はどちらも1980年代後半の、つまりバブル時代の日本に留学していたので、時代的にも空間的にも超ローカルな部分で話が合ってしまう。食後は、御夫君の運転するBuickで帰宅。当然ながら、Buickの乗り心地というのは、日常乗ることが多いフォルクスワーゲンのタクシーとは全然違う。
街では、元旦や初五と同様に、爆竹が鳴り響いている。しかし、その音には、何処かしら寂しさがある。
自傷について但し書き
「この社会は自傷的社会でもあるのだ」*1と書いたが、書いてから、この表現はちょっと舌っ足らずなんじゃないかと反省。この社会においてセラピーとか教育の名の下で行使される暴力は我々の一部である私に対して我々の一部である誰かによって行使されるという暴力の再帰性を「自傷的社会」と表現したのであり、実際にリスカなどを行う人を(道徳的に)非難する意図は全くない。それだと、「自傷的社会」をそのまま演じてしまうことになる。
「自傷」を巡って、「万事は政治の問題ではなく、教育或いは(パラメディカルも含めた)医療の問題でしかない」ような社会を批判したものとしては、Macskaさんの「リストカットなどの自傷行為を「防ぐ」ことは望ましいのか」*2を参照されたい。曰く、
自己というのは(環境)世界から差異化されて初めて自己として存立する。所謂「自傷行為」というのは、自己が(環境)世界に溶けてしまうというリスクを冒しつつ、不断に自己と(環境)世界との間の線引きを続ける所作と取り敢えずは理解できそうだが、必要なのは、それをさらに深めた〈自傷の現象学〉であり、〈自傷の病理学〉などでは断じてないだろう。
自傷行為というのにもいろいろあるだろうけれど、特にリストカットのように他人から隠れて行うものについては、ほかにコントロールできるモノを多く持たず自分自身の生を濃密に感じることができない人たちが、自分自身の身体をコントロールすることで濃密さを得るためのスキルだとわたしは思う。性的虐待やその他の厳しい状態を体験してきた人が、そうしたスキルを動員することによってようやく生きているというのに、それを頭から否定し防止の対象とするような医療は前提からして間違っている。医療モデルやそれに基づいた「被害者支援運動」は、虐待や暴力の被害を受けた人たちが生きていくために用いる様々なスキルの中に「望ましいもの」と「望ましくないもの」があると決めつける。気分を紛らわすために外でジョギングするのは望ましく、リストカットで気分を紛らわせるのは望ましくない。その時感じた感情をノートに書いてやり過ごすのは望ましく、お酒を飲んでやり過ごすのは望ましくない。悩みごとをホットラインに電話して相談するのは望ましく、援助交際して性的なコミュニケーションによって満たされることで解消するのは望ましくない。趣味や得意なことに集中することで自己肯定感を得るのは望ましく、食事を極端に減らすなどして自己コントロール感を得るのは望ましくない。余計なお世話だ。
2元/2角
といっても、この記事を読むまで、2元札と2角札の存在自体を忘れていた。
上海市ではすっかり貨幣がおなじみだが、田舎に行けばまだ1元など小額の紙幣も見られる。
ただ、小額の紙幣を使うチャンスは日に日に少なくなってきており、中国人民銀行ではすでに2元札と2角札の発行を停止した。一方で、20元紙幣は増やす方向とのことだ。
もちろん、発行が停止されても流通は可能なので、使えなくなることはない。しかし、一部コレクターの間では、新札の2元・2角を収集する動きが出始めている。
http://www.explore.ne.jp/news/article.php3?n=2237&r=sh
始末に困るのが1分のコイン。多くの店では、分の単位は適当に切り捨てたり、切り上げたりしてくれるのだけれど、中には律儀に分の単位までお釣りをくれる店もある。ところが、10枚集めて、1角として払おうとしても受け取りを拒否される。また、乞食も1分コインは受け取ってくれない。