承前*1
「きみがよ」に「逢ふ」という動詞を組み合わせるのはお約束になっているのだろうか。昨日書き出した『新古今』の「きみがよ」9首のうち4首は「逢ふ」という動詞を伴っている。「きみがよ」と歌を詠む私との偶有性。また、例の「千代に八千代に」といった永遠を指示する言葉が重ねられることも多い。とすれば、「きみがよ」のこころは(永遠などとは逆の)常に流れてゆく現在への哀惜か。それにしても、「君が代にあはずは何を玉の緒の長くとまでは惜しまれじ身を」という定家の歌は切ない。さすが『定家葛』の人の歌というべきか。歌として好きなのは、「阿武隈川」を詠み込んだ「君が代にあふくま川のうもれ木も氷の下に春を待ちけり」だな。
例の英語の歌*2について、「産経にもサヨク的記者はいるでしょうから、そういう人が正面からサヨク的記事を書けないので「屈折した」形でこういう記事を書き、抵抗を示した、とか(笑)」*3という猿虎さん*4のご意見。そういえば、昔中国で外国の学者の学説を翻訳・紹介するとき、〈国外反動学者〉!とか謳っておくと、検閲が通りやすかったということを思い出した。
「君が代」を〈強制〉した思い出。何年か前、数人でカラオケに行ったのだが、そのうちの1人が全然歌わないので、「君が代」くらい唄えるだろうと、「君が代」をセットした。ヴィデオだけれど、戦争とかデモとかそういうのを予想していたのだが、全然違って、〈富士山の日の出〉といった感じだった。「君が代」の映像といえば、あと、NHKの放送終了時のあれか。その男は、私たちの〈強制〉にも屈服せず、黙り通していたが。カラオケのレパートリーなき者の最後の手段としての「君が代」。
「猿虎」ということで、唐突ではあるが、『寒山詩』から;
可重是寒山
白雲常自閑
猿啼暢道内
虎嘯出人間
獨歩石可履
孤吟藤好攀
松風清颯颯
鳥語聲〓〓*5
(太田悌蔵訳註『寒山詩』岩波文庫、1934、p.126)