並木和子『神々と祭り 神祇祭祀の周辺』*1から。
氏神は、現代ではそれぞれの土地・地域の神をいい、その祭祀圏が氏子地域、その区域の居住者が氏子とされている。しかし、平安時代の氏神は、同族集団である氏の奉斎する神をいい、その氏が祭祀集団であった。そして、その氏族の始祖・祖神とされる神や何らかの形でその氏に縁のある神、守護神的な神などが氏神とされていた。
こうした氏神を祭る氏社は、もともとは、氏の本拠地や氏に縁のある土地に置かれていた。氏は首長である氏上と氏人からなり、大化前代には、私有地と私有民をもつ豪族であった。七世紀後半に律令制の形成が図られ、恒常的な都が建設されるようになると、豪族たちの中には本拠地を離れ官人となって都に居住し、朝廷に使える者も多くなった。が、彼らも氏神の祭りの折には、それに参加するため、都を離れ本来の本拠地である父祖の地に戻ることにしていたようである。正倉院に残されている八世紀の文書の中には、そうした祭りに参加するための官人の休暇申請書が見られる。なお、平安時代には氏の首長は氏長者とよばれる。(p.195)
都が平安京に遷っても、官人が氏神祭りのため下向する習慣は続いた。氏人の氏神祭祀のための下向には、天皇・朝廷もしばしば優遇措置を与えていた。
たとえば、小野氏の氏神は近江国にあったが*2、仁明天皇は承和元年(八三四)には、小野氏の五位以上に、官符での許可を待たずに春秋の祭りの為に往還することを許し、承和四年には大春日氏以下の三氏についても同様の許可を与えた。氏神祭のために遠国に赴く内侍などの女官に天皇が旅費を与えている例もある。
寛平七年(八九五)一二月三日の太政官符では、朝廷は改めて五位以上の位をもつ者や孫王がみだりに畿内に赴くことを禁じた。これは寛平の治の一環で、権勢家の地方での活動を抑制するための措置といわれるが、そこでも氏神祭のための下向は例外とされた。この官符の後半部で、としている。貴族・官人の氏神の多くは畿内すなわち京外の山城、大和や河内、摂津、和泉にある。毎年、二月、四月、一一月は、それを祭る月であるが、どうして先祖の祭祀を絶やしてしまってよいだろうか。それらが廃れるようなことがあってはならない。よって、氏神祭祀・祖先祭祀の為の下向の場合は、申請すればすぐ許可するものとする、というのがこの部分の大意である。(p.196)
諸人の氏神、多く畿内にあり。毎年二月四月一一月、何ぞ先祖の祭祀を廃せん。若し申請有らば、直に官宣を下さん。
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2026/05/04/152330
*2:滋賀県大津市小野の小野神社。See eg. 大津市歴史博物館「小野神社」https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/239.html あべしん「小野氏ゆかりの地を訪ねて その6 小野神社・小野篁神社」https://ameblo.jp/polarstar0507/entry-12216114696.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%B8%82)
