時間・分解者・体液

平井靖史*1「料理は時間の技術である——発酵・熟成・腐敗とベルクソン」https://note.com/hiraiya/n/n60aad1c81b50


平井氏はベルクソン研究の第一人者。
これまで、時間の重層性という観点から、ベルクソンの時間論を考えたことはあまりなかった。


私が「マルチタイムスケール(MTS)フレームワーク」と呼んでいる考え方がある。時間は一枚岩ではない。速い反復から遅いうねりまで、複数のスケールが同時に並行して走っている。そしてスケールとスケールの「はざま」で、何か新しいものが生まれる。

料理に当てはめてみよう。

秒のスケール——包丁のリズム、鍋を振る手首の動き。料理人の身体技法。反復によって身につく運動記憶の領域だ。

分〜時間のスケール——火入れ、煮込み、オーブンの時間。温度と時間の関数として食材の組織が変わる。コラーゲンがゼラチンに変わるのには低温で数時間かかる。

日〜月のスケール——発酵と熟成。ここから人間の手を離れ、微生物の時間が主役になる。ぬか漬け、チーズ、ワイン、魚醤。人間にできるのは環境を整えることだけで、あとは待つ。

年〜世紀のスケール——農業。品種改良。食文化の伝承。ある地域でなぜこの料理が食べられているのかは、気候・土壌・歴史の長い時間が決めている。

万年〜のスケール——土壌の形成、地質学的時間。


ベルクソンは『創造的進化』*2(1907年)で、生命の進化を大きく二つの方向に分けた。植物は太陽エネルギーを蓄積する方向、動物はそのエネルギーを消費して運動する方向。蓄積と消費、この二つの対比でベルクソンは生命の時間構造を描いた。

だが、ここに決定的に欠けているものがある。分解者——菌類や微生物の時間だ。

植物が蓄積し、動物が消費したものは、どこへ行くのか。菌類と微生物がそれを分解し、土壌に還し、ふたたび植物が利用できる形に戻す。蓄積→消費で終わるのではなく、蓄積→消費→分解で循環が閉じる。そこにもう一つの時間的位相がある。

発酵とは、まさにこの「第三の時間」を人間が利用する技術だ。腐敗と発酵は、生化学的には同じプロセスである。人間にとって有用な方向に進めば発酵と呼び、有害な方向に進めば腐敗と呼ぶ。分解という同一のプロセスに対する、人間の側からの命名の違いにすぎない。


この蓄積・消費・分解の三者の循環は、じつは一つの身体の内側でもすでに回っている。

私たちの身体は食べたものを蓄え(蓄積)、運動や思考でエネルギーを使い(消費)、消化液や腸内細菌が食物を分子にまで解体し再利用に回す(分解)。体の中で菌類の時間はもう動いている。

そして、この三つを媒介しているのが体液だ。血液は栄養を運び、酸素を届け、老廃物を回収する。消化液は食物を分解しつつ吸収可能な形に変換する。体液は蓄積・消費・分解のどれか一つに属するのではなく、三者の循環を身体の内部で駆動するメディウムとして、絶えず染み出し、流れ、混じり合っている。

ここで、ベルクソン時間論の肝とも言える「持続(durée)」が登場する。

ベルクソンの時間論の核心は、時間は均質な容器ではなく、異質なもの同士が浸透しあい熟していくプロセスそのものだ、という主張にある。彼はこれを「持続(durée)」と呼んだ。体液の染み出しは、この相互浸透の身体的な実現と言えるかもしれないが、ベルクソンの身体論はこうした側面を十分には扱ってこなかった。『物質と記憶』*3が描く身体は、もっぱら神経系と運動系——「行動の中心」としての身体だ。染み出す体液、内臓の不透明な時間は、ほとんど主題化されていない。ベルクソンが最も近づいたのは「情動(affection)」の議論だったかもしれない。生命図式に分解者を書き加えるのと同じように、身体論に体液の時間を書き加えること。これも課題だ。