Backyard Boy*1「岸政彦『生活史の方法』書評|社会の「向こう側」に耳をすませて」https://bookends1000.hatenablog.com/entry/2026/02/10/210000
岸政彦『生活史の方法』*2について。
少し切り取っておく。
だが、本書は「たった一つの正解」を示す形は取っていない。もちろん、「できるだけ避けなければならないNG例」みたいなものは示唆されるのだが、相手が生身の人間である以上、絶対の正解はない。そうした前提の上で、「少なくとも自分はこうしてきた」という試行錯誤の歴史が示されている。通読してもっとも印象的だったのは、「努力」という言葉が何度か出てきたことだ。そう、他者を理解するには「努力」が必要であり、それはどうやっても飛ばすことができない、ということがこの本には書いてある。「人生を聞いて書く」ということだけであれば、なんだか簡単そうだ。だがそれを具体的な形にするには、上につらつらと書いたような疑問がすべてクリアになっていないと先には進まない。その手前にある、名もなき努力。終わらぬ自問自答。
言うまでもなく、その努力を省略した結果として、安易なラベリングがあり、ステレオタイプの固定化や再生産があり、差別がある。
それに抗うため、というわけではないかもしれないが、一連の「生活史プロジェクト」も含めた著者の仕事は、多くは名もなき人びと、市井の生活者たちを関心の対象としてきた。「聞かないと残らない」から。「意図的に、努力して聞き取らないと、一切残らない」から。
そうした人びとを対象とした聞き取りは、この社会がふつうの人々によってどのように生きられ、大きな歴史がふつうの人々の中でどのようにつながれてきたのかを、断片的にではあっても活写していく。時には、「差別」や「排除」、さらに言えば「暴力」がどのように経験されてきたのかを描くことにもなるのだろう。権力者や有名人の「裏話」や「武勇伝」ではそうはいかない。
そのようにして、「他者への関心」を柔らかく開いていくこと。他者への「気遣いゆえの無関心」のような、微妙な膜のようなもので隔てられた人と人との距離を、努力して、迷いながらも侵していくこと。生活史の作品ではなく、その「方法」を共有することによって、著者はここで私たちを「その先」へと誘っている。
だが、誤解が生じる前にこれだけは断っておきたい。本書は生活史調査の舞台裏、その地道なリアリティーを披露することで、「こんなに頑張ってるんだから認めてね」という免罪符を求めているのではない。そうではなく、著者はここで、少なくとも二つの限界を自ら指摘している。まず、「誰に会えて、誰に聞き取りをできたかどうかそれ自体が、聞き手の属する階層やクラスターを顕在化させ、ある種の分断を表現することがある」という構造的な限界だ。どこにでもいるはずの他者に、実は簡単には出会えない。手懐けることなどできない、社会の途方もなさ。だがそれを自覚した上で、その「向こう側」をどれだけ意識できるかだと著者は言う。
そしてもう一つは、話を聞くことに伴う暴力の問題だ。そう、他者の人生を聞くという行為そのものが、ある種の「暴力」として作用しうる。だがそこで終わってしまうのではなく、その責任や絶え間ない自己嫌悪と向き合い、できる限り誠実であろうとすること。その結果が、例えば打越正行の「パシリになる」ということであり、例えば上間陽子の「支援に入る」ということなのだろう。何かを受け取る代わりに、何かを差し出す。そういうことが多分、現場では行われている。責任に対するそれぞれの応答の仕方がある。
一方、語り手と親密なラポールを築く打越*3や上間*4の方法とは異なり、著者の聞き取りは「ワンショット」、つまり「一回こっきり」で行われることが多いという。それによるメリット、デメリットはもちろんあるのだろうが、しかしそのどこか遊離した、離ればなれの感覚みたいなものこそが、「人生」に並ぶ著者にとってのもう一つのキーワード、一連の生活史プロジェクトの狙いでもあろう「街」という言葉につながっていくような気がする。
