梨木香歩『f植物園の巣穴』*1から。
(「ガやチョウなど」の)「完全変態」の虫について。
彼らの意識構造はどうなっているのだろう。つい昨日まで葉を食べ、もそもそと
草木の上を這っていたものが、次第に動かなくなり終いには蛹となりついに外見上微動だにしなくなる。このとき、芋虫としての生は終わったのである。これは言ってみれば芋虫の死というものであろう。その間体内の組織構造はがらりと造り変えられ、出てきた途端、全く別の存在となっている。新しい生を宿して「出現」するのだ。食する物はおろか生活様式まで完全に変える。ひらりひらりと舞い飛ぶチョウのたちの意識の中に、かつて芋虫として這いずっていた頃の記憶の片鱗があるのだろうか。モンシロチョウ*2がキャベツ畑に卵を産み付けるとき、ああ、つまりそういうこともあったかと、自分の生もここで始まったのだと、一瞬でも悟ったような思いが脳裏を去来することがあるだろうか。そんなことはあるまい。生物というものは未来へ向けて生きるものなのだから、思い出して何の益にもならぬ過去のことなどそもそも思い出すように造られてはいないのである。昆虫などの持つ機能的で無駄のない脳にはそのような記憶を司る部分など造られてはおるまい。昆虫ほどではないが、そのように私も、幼い頃のことなど思い出しもしなかったのである。(pp.119-120)
芋虫をかっていた幼い頃、蛹となったすぐのものを解剖してみたことがある。蛹の中はすでに液状と化しており、小刀を入れた瞬間私は驚くと同時に気分が悪くなった。しかしそこで止めてしまっては、この新たなる発見、蛹の中身は一旦液状となる、という事実に一般性を確認することが出来ぬ。何か病的な原因によるこれ一個のみの事情かも知れぬではないかと思い(略)私は気味の悪さを堪え、更に続けて数個、試してみたがいずれも中身はほとんどが液状だった。(略)ただ、蛹になって一週間ほど経過していたものだけは、すでにチョウにならんとする萌芽を示していた。すなわち、足や触覚、眼、羽に至るまでが識別出来るようになっていたのだった。
芋虫は(極論すれば)死んで液となり、それが流れ出ぬよう保持する器が蛹の殻、液とは死んだ細胞が蛋白質等諸々に分解されたものだったのだろう。アミノ酸レベルにまで分解された蛋白質が、今度は新しい生物へと組み替えられてゆくのだ。まるで土壌の成分が次次に新しい植物を養ってゆくようではないか。いや、植物ばかりではない。結局生物は皆、廃物利用の二次製品なのやも知れぬ。二次どころではない。
そこまで考えて私は、無論蛹液の中には死せぬ何か、神経系の如きもの、原基の如きものもあったには違いない、と思い改める。そでなければ次の生に向かうとっかかりがない。(pp.125-126)
