らしさ/らしくなさ

雨宮庸介展『まだ溶けてないほうのワタリウム美術館』(ワタリウム美術館)を観た。
東京における雨宮の最初の展覧会であるという。しかしそもそも雨宮庸介*1の作品を観るのは初めてだ。
さて、やはり林檎の彫刻群(”Melting Apples”)が面白かった。
薪「【曖昧なリンゴ】雨宮庸介展|まだ溶けてないほうのワタリウム美術館*2からちょっと長い引用をする;


さて雨宮氏のリンゴだか、解説が面白かった。自作のリンゴをドイツの方へ見せたら「全然リンゴらしさがない、こんなに赤く無いし大きく無い」と言われたそうだ。
日本で私たちがよく見ている赤いリンゴに対して、それが基準と思いがちだが、環境が変わればそんな基準なんていとも簡単に崩れ去る。環境が違えば育つ作物の様子も変わるし考えてみたら当たり前か。

例えば絵画の試験で「リンゴを林檎らしく描きなさい」という課題が出たら。
今までの人生で見たものだけからしか「らしさ」を思い浮かべることができない。

それぞれ抽出する「らしさ」が違うかもしれない。大きさだったり、色だったり形だったり。

らしさってすごい曖昧なんだな。

雨宮氏自身の言葉だと、

さらに踏み込んで林檎の表面をスキャニングしてみると、最も興味深いことの1つは、例え同じ品種であっても、農業の施され方で全く違う外見になることです。例えば簡単に言うと日本の農業では、中心花を残して他の 5、6 個は摘「花」してしまい、数週間後にはさらに摘「果」し、個数を減らすことによりひと玉をできるだけ大きく育てるわけです。さらに、果実を廻したり、葉を摘んだり、マルチシートにより地面からの反射光を作ったりもします。袋掛けもまた赤色変化のためのアントシアニンを増加させる方法のひとつです。ようするに日本の農業ではモデリングもカラーリングもしているのです。これはある種、農家の手によってすでに「彫刻」されているようなものです。一方、ヨーロッパの一般的な林檎は、過度な摘果をしないために全体的に小ぶりで、隣接する果実同士がお互いの日照を遮るために、さまざまな焼け残りのパターンがあらわれます。
(「空と重力と林檎、そのオルターエゴ」https://applesandpeople.org.uk/wp-content/uploads/2022/04/Yosuke-Amemiya-Japanese.pdf p.2)
このような「農業の施され方」の成果を、幼時より長じてまで触れたり・見たり・食べたりすることによって。各社会における林檎〈らしさ〉(他社会から見れば〈らしくなさ〉)が自明化されていく。しかし、林檎〈らしさ〉にはこのような相対的な側面と、誰でも林檎について持っている筈の普遍性を有している。雨宮氏によれば、それには「地球」が関わっている。社会的な相対性を踏まえた上で見出される普遍的な「地球」。

しかもさらにややこしいことに、そのシークエンスは「地球」という大きな摂理に即していないといけないのです。例えば林檎の軸を思い描く時に自然とカーブさせる、もしくはカーブしているほうが自然に思えるのはなぜか?それは「上からの太陽光線を光合成するための葉と同じ方向に咲く花が実になって重くなると下にさがってくる=だから林檎の軸は多くの場合カーブしている=上方に空があり重力は下方にかかる=地球にいる」みたいなことです。極端につなげると、「林檎の軸がカーブしている(ほうが多くの人にとって自然と感じる)のは、われわれ人類が長い年月を地球の表面ですごし、それを普遍的な認識の基礎とみなしているから」となるわけです。人間の目は結構シビアな判定が可能で、そこに記号としての林檎っぽい模様や色があったとしても、その「物語」のなかにローカルをつらぬく「普遍性」を無意識にでも発見できないと、人はそれを「本物らしい」と判定しない仕組みになっているのです。