榎原均

吉永剛志氏曰く、


榎原均氏*1って、1990年代前半に(現在絶賛炎上中? の)『情況』で幾本かの論攷を読んだくらいで、そのwhatにあたる部分もwhoも全然知らなかった。この度、氏のサイトの「自己紹介」を読んで、具体的な人物像に少しは近づいた気がしたのだった*2
それから、「共産主義者同盟(RG)」も、私が大学生だった1980年代前半には、既に(フリーメイソン以上に)謎の組織だった。「共産主義者同盟」+「RG」でネット検索すると、出てくるのがWikipediaの「共産主義者同盟 (全国委員会)」の項*3。RGというのは、共産主義者同盟(全国委員会(烽火派)からの分派だったわけだ。

1970年代初期の第二次ブント分裂によって結成された党派である。機関紙は「烽火(のろし)」で、これが党派名の由来ともなっている。本部(大阪戦旗社)は大阪府大阪市北区に置き、主に関西地方を活動拠点としていた。

関西に結集した烽火派は、叛旗派・情況派が分裂した後に戦旗派内の権力闘争の先頭を切った神奈川左派と、1971年1月頃までに5ヶ月間に亘る組織的な議論と厳格な文書の署名を経て統一し、連合派閥を形成。これにさらぎ派が合流して12・18ブントを形成した。しかし、沖縄デー闘争で戦旗派指導部(主流派)に敗れた以降は空中分解に陥った神奈川左派の一部を吸収。

同年11月1日に単独で共産主義者同盟全国委員会を名乗り、機関紙『烽火』265号を発行し、同紙上にて共産同機関紙『戦旗』の一時停刊と、全国政治新聞としての『烽火』発行を宣言する。これは、単に関西地方委員会の後継ではなく、12・18ブント結成直前に神奈川左派と形成した連合派閥から中立派と神奈川左派の一部を除いた大部分の後継を自認していた。しかしながら、一月前の中央委員会における指導部との対立を経て共産同に拠る部分が分裂し、共産主義者同盟の本流を自認しつつ11月5日付で共産主義者同盟から「共産主義者同盟(RG)」(RGはエル・ゲーと読み 「Rote Gewalt(ローテ・ ゲヴァルト)」の略)へ改称し、機関紙も『戦旗』から『赤報』へと改題、11月15日付で記念すべき第1号を発刊、機関紙上にて神奈川左派と烽火派主流の除名を宣言した。以降、 烽火派からは「RG派」又は機関紙名から「赤報派」と通称される。