「ワイドショー」から

中山千夏『幸子さんと私』*1から。
中山千夏はTVにおいては最初「ワイドショー」の「アシスタント」としてブレイクした。


(前略)七〇年代初頭、私はテレビタレント、俳優、ライターとして、のちに言う「マルチタレント」として世に歓迎されていた。その端緒は、一九六八年九月に開始した『お昼のワイドショー』(NTV)だったろう。この番組は、同年夏の参議院選挙で石原慎太郎とともに初当選した、当時はまだ珍しい「タレント議員」、青島幸男横山ノックをメイン司会者に据える企画で開始し、そのアシスタントとして起用されたのが、ハタチになって間もない私だった。番組は月~金の正午から一時間の生放送で、月・水・金が青島、火・木が横山の司会でスタートした。ほどなく青島のみになって、八七年まで続いた。私は七六年に降板した。(p.152)
「私としては、ただ自然に発言しながら、出演者たちの交通整理をやっていただけ」なのに、何故かその「言動がウケた」(p.153)。当時は「テレビでも、女性タレントは「女らしく」努めて振る舞うのが常」で、「視界のアシスタントなら、控えめに言葉少なく助手に徹して、番組の進行にのみ気を配る、それが女の役割だった」(ibid.)。

ところが私は違った。自然のままふるまった。芝居でなくなると突然、自らに誠実であらねば、という姿勢をとってしまうわら氏は、自然にふるまわずにはいられなかった。その自然はといえば、男女平等の新憲法下、男女共学で育ち、あまつさえ実力主義の芸能界を小さいころから成功裏に生きてきて、若くして一定の自信を持ち、女よりも男が、無学歴より大学出が、芸能人より政治家が、無条件にエライとはつゆ思わない、そんな自然だったのだ。(略)その自然をもって、臆せず遠慮せずふるまったのが、のちに「学生運動の時代」とも呼ばれる、変革の期待が大きく膨らんでいた時代の大衆に、歓迎されたのだろう。(pp.153-154)

(前略)私は正字や社会の問題について、たいそうオクテだった。六八、九年当時はただただ政治嫌いの芸術志向、政治や社会にはまるっきり無知といってよかった。今でも無知だが、当時に較べれば学者なみだ。この時代を代表するべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)も、小田実も知らなかった。
学生運動にシンパシーはあった。けれども。五月革命も知らなければ羽仁五郎も知らず、あらゆる反体制闘争も知らず、冤罪事件を知らず、共産主義個人主義も、てんからわかっていなかった。『朝日ジャーナル』など、一言半句も理解できなかった。婦人解放運動を知らなかった。市河房枝の名は(当時、青島と前後して返り咲きで当選し、話題になっていたので)かろうじて知っていたが、平塚らいてうを知らなかった。
それがワイドショーやエッセイやマスコミで、多少とも社会的政治的な発言をした。無知を糊塗することはなかったが、無知だから黙る、ということもなかった。だからそれらの発言は、知識や考察の裏付けによるのではなく、ひたすら持ち前の感覚によるだけのものだった。それがウケたのは幸運としかいいようがない。いや、だからウケたのかもしれないが。
そんな私も、テレビで出会う論客たちから、だんだんに耳学問していった。特に大きかったのは、『お荷物小荷物』の録画のあとの酒席で、脚本家の佐々木守*2、俳優の戸浦六宏佐藤慶といった、大島渚につらなる「政治的芸能者」たちの討論に聞き耳立てたことだろう。彼らが私のなかに、政治的活動に対する興味を芽生えさせたと言っていい。(pp.154-155)
唐突に出てくる『お荷物小荷物』は1970年から71年にかけてオンエアされたドラマで、粗筋は、

東京の下町にある「滝沢運送店」は、滝沢忠太郎を頭とする男7人家族が営む男尊女卑をモットーとする運送店である。この店に米国統治下の沖縄から上京した「田の中菊」*3が、住み込みのお手伝いとして働き始めた。

菊は実は「今帰仁菊代(なきじん・きくよ)」という名であり、4年前に滝沢家でお手伝いをしていた「洋子」の実妹である。洋子は仁と恋に落ち、結婚の許しを仁と忠太郎に請うのだが、一方的に捨てられてしまった。失意のうちに沖縄へ戻った洋子は、仁との間にできた子供(仁一)を産むとすぐに死んでしまった。菊代(菊)は姉の復讐を果たすとともに仁一を滝沢家に認知させるために、素性を隠して滝沢家に潜り込んだのだった。菊は男たちのしごきに耐え、得意の空手を駆使しながら、男たちを手玉にとり、次第に彼らを懐柔していくのだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%8D%B7%E7%89%A9%E5%B0%8F%E8%8D%B7%E7%89%A9

というもの*4

シュールなブラックユーモアをちりばめ「脱・ドラマ」「脱・ホームドラマ」と呼ばれたアバンギャルドなテレビ番組と評される。「脱ドラマ」と言われるように、ドラマ中に主演の中山がハンドマイクを持って共演者やスタッフにインタビューする場面もあり、プロデューサーの山内久司が顔出しして中山からインタビューを受けたことがあった。また沖縄県基地問題アイヌ問題・天皇制などを題材にするなど社会派作品としての面も持つ。テレビドラマの約束事を打ち破る手法で人気を博したが、当時の有識者からは「有害番組」と評された。

作品のキャッチフレーズは「超えてる人たちです」でフランス映画『彼女について私が知っている二、三の事柄*5から影響を受けているとされる。各話にはサブタイトルが付けられていて、1話は主な舞台になった「滝沢運送店」店主の忠太郎、忠太郎の息子である孝太郎および、孝太郎の5人の息子たちの家族構成から「男だらけ」。2話から11話まで運送業界での専門用語を交えた一方で、12話から最終回まではストーリーに関連した3つの単語を並べていた。

最終回には「18・19、最終回」というサブタイトルが付けられた。1回分の放送枠に18話と19話(最終話)を構成したことによるもので、実際には、出演者が最終回に向けた意気込みをテレビカメラの前で語ったVTR、翌週から放送枠を引き継ぐ連続ドラマ『おも舵とり舵』の予告映像、18話を順次放送したうえで、放送枠の残り15分間を最終話に充てていた。最終話は、18話までと全く違うストーリーで、滝沢家の五兄弟が戦場に向けて突如出征。「日本国憲法第9条の削除」「自衛隊の軍隊昇格」「徴兵制の施行」という設定の下に、ブラックユーモアを交えながら戦争の不条理を描いていた。さらに、滝沢家の倒壊シーンで実際にセットを引き倒した後に、セットが跡形もなくなったスタジオへ出演者が集合。その場で続編(『お荷物小荷物・カムイ編』)の制作を発表するという異例の展開で幕を閉じた。(ibid.)