戸板を立てよ

承前*1

NHKの報道;

市川猿之助さん 警視庁が事情聴く 詳しいいきさつを調べ
2023年5月24日 18時40分


今月、自宅で両親とともに倒れているのが見つかった歌舞伎俳優の市川猿之助さんから、24日、警視庁が事情を聴いたことが捜査関係者への取材で分かりました。
猿之助さんは当初「3人で、死んで生まれ変わろうと話し合った」という趣旨の説明をしていて、警視庁が詳しいいきさつを調べています。

今月18日、歌舞伎俳優の市川猿之助さん(47)と、父親の市川段四郎さん(76)、それに75歳の母親の3人が東京 目黒区の自宅で倒れているのをマネージャーが発見し、その後、両親の死亡が確認されました。

警視庁によりますと、段四郎さんと母親は、自宅2階のリビングの床に布団がかけられた状態であおむけに倒れていて、前日から当日にかけて向精神薬中毒で死亡した疑いがあるということです。

猿之助さんは2人とは別の地下の部屋で発見され、病院に搬送されましたが、当時、警視庁に対し「3人で、死んで生まれ変わろうと話し合い、両親が睡眠薬を飲んだ」という趣旨の説明をしていたことが分かっています。

猿之助さんは現在、都内の別の病院に入院していて、警視庁が24日、都内の警察の施設で本人から事情を聴いたことが捜査関係者への取材で分かりました。

猿之助さんは病院へ搬送された当日、警視庁に対し「両親が死亡したのを見て、地下の部屋に行き、自分も死のうとした。意識がもうろうとして気付いたら病院にいた」という趣旨の説明をしていたということで、警視庁はさらに詳しいいきさつなどを調べることにしています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230524/k10014076671000.html

この事情聴取に関しては、既にかなり具体的なディテイルが伝えられている;


週刊文春」編集部「睡眠薬を飲んだ両親にビニール袋を被せ…「死にきれなかった」市川猿之助に迫る“自殺幇助罪”の捜査」https://bunshun.jp/articles/-/63116
市川猿之助「1人だけ生き延びよう」と自殺の痕跡残した? 両親にビニール袋かぶせたと報道…若狭勝氏が同意殺人罪の可能性を指摘」https://www.zakzak.co.jp/article/20230525-KHBKTKLX4VNK3HYAP7WPPHYQIM/


後者は文春の記事を踏まえたもの。若狭勝*2が示唆する「同意殺人罪」とはどういうものかというのを記事では定義していない。
ベリーベスト法律事務所「承諾殺人の刑期とは? 同意のもとでも殺人は罰せられる?」*3から引用してみると、


刑法第202条は、自殺への関与および同意殺人について、次のように明記しています。

人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
前段の「人を教唆しもしくは幇助して自殺させる」ことを「自殺関与罪」、後段の「人をその嘱託を受けもしくはその承諾を得て殺す」ことを「同意殺人罪」といいます。

同意殺人罪は「嘱託殺人」と「承諾殺人」の罪に分けられます。

嘱託殺人とは「人をその嘱託を受けて殺す」こと、すなわち被害者から殺害を依頼されて殺す犯罪です。承諾殺人は「人をその承諾を得て殺す」こと、すなわち被害者に殺害を申し込み、その同意を得て殺す犯罪です。

どちらの罪も、被害者本人が殺害される意志をもっている点は共通しています。一方、嘱託殺人が被害者からの働きかけで殺害に至るのに対し、承諾殺人は被害者ではなく加害者からのはたらきかけに対して同意させ殺害に至る犯罪です。
この点で、嘱託殺人よりも承諾殺人のほうが重い犯罪だと考えられています。


同意殺人罪が成立するためには、嘱託・承諾する能力のある者が真意で同意していることが必要です。したがって、死ぬことの意味を理解できない幼児や意思能力を欠く精神障害者などが被害者の場合、同意殺人罪は成立しません。このような場合は、刑法第199条の殺人罪として処罰されます。

ただし、被害者が亡くなれば、その真意を明らかにするのは容易ではありません。そのため、客観的事情が重視されることになります。
たとえば、被害者と加害者との間のメールやLINEなどメッセージの履歴、二人が知り合った経緯、被害者が抵抗した痕跡の有無、被害者が生前に周囲へ話していた内容など、さまざまな事情が判断の材料となるでしょう。


ところで、今回の騒動を聞いて、昔、歌舞伎評論家兼ミステリー作家で、「団十郎切腹事件」で直木賞を受賞した戸板康二という人がいたことを思い出した。この人は、慶應文学部で折口信夫に師事した。市川猿之助父子の先輩でもあるのだった*4

さて、『週刊文春』によると、市川猿之助一家の最後の晩餐は「蕎麦」であった。