荻野吟子

広瀬玲子「荻野吟子――身をもって示した女性の自立」『機』(藤原書店)358、pp.20-21、2022


曰く、


女医の歴史を遡ると荻野吟子にたどりつく。豪農の娘として育ち、結婚により夫から淋病に罹患させられ離婚する。男性に非がありながら女性が犠牲になる不条理、女ゆえにうける痛み・苦しみを吟子は味わうことになった。
鬱々とした治療の日々のなかで、同病の女性たちが男医の診察に強い羞恥と苦痛を自分同様感じていることを知る。ここから自らが医師となり救世主として立とうという決意が芽生えた。サバイバーとなったのだ。しかし、当時の制度は女医を認めていなかった。暗中模索のなかで東京女子師範学校を卒業、石黒忠悳の助力により好寿院*1で医学を学んだ。女性に受験資格を認めていなかった医術開業試験の門戸を開くよう請願を繰り返し、門戸を開かせ、一八八五年受験・合格した。公許女医第一号の誕生だった。(略)
吟子の勇逸の論文「本邦女医の由来及其前途」は、当時の男性優位のジェンダー秩序を鋭く批判し、女医の意義を明快に述べ、女医が絶対必要とされている部署を、宮内庁皇后担当医・警視庁性犯罪被害者担当医・地方各府県の病院の婦人科・小児科・産科と指摘した(略)(p.20)

診察を開始するかたわら、私立大日本婦人衛生会を設立して家内衛生思想の普及に務める。「衛生は国家富強の礎」が彼女の主張だった。ナショナリストでもあった。キリスト教に入信し基督教婦人矯風会に参加、副会頭として廃娼運動の先頭に立ち、女性を苦しめる根源との闘いを開始する。一夫一妻制の請願にも名を連ねた。石井亮一*2と手を携え孤児救済活動も行った。その一方で女子の政治活動を全面的に禁止する集会及結社法に抗議して、「婦人の議会傍聴禁止に対する陳情書」に名を連ねた。弱者へ注ぐ温かいまなざしと女性の権利拡張は表裏をなしていた。(pp.20-21)

若きキリスト教徒志方之善との出会いが吟子を北海道へと誘うことになる。北海道にキリスト教徒の「理想郷」を築く夢に共鳴した吟子は、九四年に利別原野に渡った。「理想郷」建設の夢は破れ九七年には港町瀬棚で開業した。ニシン漁に沸く瀬棚には遊郭で働く女性たちがいた。教会の日曜学校に出向き、淑徳婦人会を結成して女性の修養と地位向上に務めた。(p.21)
See also


熊谷市立江南文化財センター「荻野吟子(おぎのぎんこ)」http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ijin/oginoginko.htm
国際留学生協会「 荻野吟子」https://www.ifsa.jp/index.php?Goginoginko
埼玉県県民生活部男女共同参画課 推進・DV対策担当「荻野吟子について」https://www.pref.saitama.lg.jp/a0309/danjyo-ginko/oginoginko.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E9%87%8E%E5%90%9F%E5%AD%90

*1:明治天皇の侍医として宮内庁で医師をしていた高階経徳が、晩年に東京の秋葉原で開いた私塾」(https://epilogi.dr-10.com/dictionary/ct06/1621/)。

*2:See eg. 「「知的障害児教育の父」石井亮一とは」https://www.hoikuplus.com/post/usefulnurtureinfo/2399 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E4%BA%AE%E4%B8%80