「さいわい」とは

酒井順子*1「「あたり」と「はずれ」」『TSUKIJI』(築地本願寺)890、pp.20-21、2022


曰く、


源氏物語を読むと、「さいわい」、つまり「幸い」の意味が、あの時代と今は異なることがわかります。努力して獲得するものではなく、玉の輿のようにたまたま降ってきたものこそが、女性にとっての「幸い」だったのです。
努力しようにも術がなかった、と言うこともできましょう。勉強や仕事に力を注いで成功を手にする道は閉ざされていた。昔の女性達。だからこそ「幸い」は、自分で手に入れるものではなく、他人から与えられるものだったのです。
対して私は、自分の努力で「幸い」を得られる時代に生きています。それはとてもありがたいことではあるものの、たまに「全てが努力次第」ということが苦しくなることも、あるのでした。何か不満があっても誰のせいにもできず、「自分の努力不足のせいでしょう」となるのですから。(p.21)
英語でもhappyの語源は、「偶然」を意味した古ノルド語のhapp或いは古英語のhapに遡ることができる。happen(生起する)やperhaps(ひょっとして)も同じ語源から派生している*2
それはともかくとして、「誰のせいにもでき」ない世界の息苦しさについては、樋口裕一『日本語力崩壊』という本の一節に共感したことがあった*3

努力した人や能力のある人がよい目を見るのが健全な社会だという意見もあろう。もちろん、それが社会の基本であってほしい。だが、努力しなかった人も能力のない人も、運がよいためによい目を見ることがあってもいいのではないか。「運」「偶然」「幸運」「宿命」という領域を残しておかないと、人間、救いがない。「自分がこんな生活をしているのは、無能だったからだ」「努力できない人間だったので、こうなった」というのでは、救いがない。運の悪さのせいにしてこそ、プライドを持って生きていける。
そして、現に、成功するもしないも、学歴をつけるもつけないも、大いに運が左右すると考える。大学入試の当日にたまたま体調が悪くて人生が変わった人、選択した科目のせいで志望校に入れなかった人など、数限りなくいるだろう。いや、それ以前に、経済的理由で勉強できなかった人、家庭環境によって勉強できる雰囲気ではなかった人、高校時代にいじめや人間関係に苦しんだ人、たまたま受験の時期に恋愛やスポーツなど、夢中になるものを見つけてしまった人など様々だ。そして、それらはまさしく運にほかならない。もっといえば、能力があるというのも、一つの運にほかならない。そうした運を認めず、すべてを努力の成果とするのは、運良く学歴競争に勝ちぬいた人のおごりという面もあるのではないだろうか。(pp.50-51)