「反体制家」の形成

桐原健真高野長英――権力が産み落とした経世家」『機』(藤原書店)356、pp.18-19、2021


高野長英*1が「蛮社の獄で弾圧された理由が、崋山*2に比肩する政治思想家であったからだという通説については、実は一考の余地がある」という。


長英が蘭学アドバイザーとして、崋山に多くの海外知識を提供したことはよく知られている。田原藩家老として海岸防衛に努めていた崋山であったが、蘭語読解の能力は有していなかったので、長英の学識は貴重であった。その意味で、崋山の世界認識は長英によって育まれたと言ってよいだろう。だが、「このままでは、てをこまねいて侵略を待つのみだ(只束手して寇を待つ歟)」と激烈な表現で『慎機論』を結び、鎖国に基づく幕藩体制そのものを批判した崋山に比べると、長英の『夢物語』はなお温和で体制順応的であった。すなわち長英は、海外知識の積極的な受容を説くものの、鎖国自体は批判しなかかったからである。それは蘭学をあくまで学術知識の源泉と考えていた学究の徒と、国土防衛のために激動の世界情勢を把握する手段と捉えていた政治家との意識の差から来ていた。(pp.18-19)

学究的であった投獄以前の長英は、それゆえに政治的な志向が薄かった。しかし、みずからの主張によって投獄されたという事実は、彼に自分自身を経世家として自認させることともなった。まさに彼は、反体制家として弾圧されたがゆえに経世家となったのである。
逃避行中に長英が訳出した『三兵答古知幾』(一八四七)の説く歩・騎・砲の三兵戦術の体系は、その後の日本兵学史に大きな影響を与えた。しかもそれは技術上の革新に留まらず、武家社会を大きく動揺させるものでもあった。すなわち歩兵を軍隊編制の要とする三兵戦術は、下級兵種であった卒族(足軽)の地位向上をもたらし、さらに奇兵隊のように身分を越えた士庶混成軍を生む基礎ともなったからである。それは同時に身分制の空洞化を加速させるものでもあった。
権力が一学究を弾圧したことで一人の経世家を生み、やがてみずからを滅ぼす遠因を作ったとすれば、これほど皮肉なことはない。(p.19)