「風」 になった

共同通信の記事;


千の風に―」新井満さん死去
75歳、芥川賞作家

2021/12/4 12:20 (JST)


 「千の風になって」の翻訳と作曲で知られる芥川賞作家の新井満(あらい・まん=本名みつる)さん*1が3日午前8時46分、誤嚥性肺炎のため北海道函館市内の病院で死去した。75歳。新潟市出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻紀子(のりこ)さん。

 上智大卒業後、電通に勤務する傍ら、1987年に「ヴェクサシオン」で野間文芸新人賞、88年に「尋ね人の時間」で芥川賞を受賞。98年の長野冬季五輪では開閉会式の構成を担当するイメージ監督を務めた。

 米国に伝わる作者不詳の詩を翻訳、作曲し、自身でも歌った「千の風になって」は「私のお墓の前で泣かないでください」という詞が話題に。
https://nordot.app/839673455625715712

スポーツニッポン』の記事;

芥川賞作家の新井満さん死去 75歳「千の風になって」翻訳&作曲、マルチに活躍「現代のダビンチ」
12/5(日) 5:30配信


スポニチアネックス

 ヒット曲「千の風になって」の翻訳と作曲で知られる芥川賞作家の新井満(あらい・まん、本名新井満=あらい・みつる)さんが3日午前8時46分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため北海道函館市内の病院で死去した。75歳。新潟市出身。葬儀・告別式は近親者で営む。喪主は妻紀子(のりこ)さん。♪私のお墓の前で泣かないでください――の歌詞で始まる同曲は、多くの日本人の心を癒やした。

 大切な誰かを失い、悲しみに暮れる人を励まし続ける名曲の生みの親が亡くなった。紀子さんは公式サイトで「新井満は風になりました。いま、千の風になって日本中、世界中、宇宙中を自由に吹き渡っていることでしょう」と歌詞になぞらえて報告した。

 親しい音楽関係者によると、2010年に静けさと景観にひかれ北海道七飯町に移住。紀子さんがアニメ「アルプスの少女ハイジ*2ファンだったこともあり「最近は森の中でヤギを飼ったりして暮らしていた」という。

 今年は五輪やパラリンピックに関連したアイヌ文化を紹介するイベントなどに携わったが、夏以降に体調を崩し「仕事で東京に来られなくなっていた」(同関係者)という。

 上智大卒業後、電通に勤務する傍ら、1977年に社員として歌ったカネボウのCMソング「ワインカラーのときめき」がヒット。88年には小説「尋ね人の時間」で芥川賞を受賞。98年の長野冬季五輪では、開閉会式の構成を担当するイメージ監督を務めるなど「現代のレオナルド・ダビンチ」と評する声も上がるマルチな才能を各方面で発揮した。

 活動の根底には「死」への視線があった。高校3年生だった64年に新潟地震津波の恐怖を体験。PTSD心的外傷後ストレス障害)のため十二指腸潰瘍を患い、潰瘍部と胃のほとんどを摘出。「以来、死はいつかではなく、すぐそこにあることを知った」と語っていた。

 「千の風…」は、米国に伝わる作者不詳の詩を翻訳、作曲し、自身で歌ったのが最初。亡くなった人は墓に入るのではなく、風になって残された人々のそばで吹き渡るという、やさしい世界観が人々の心をとらえた。

 06年のNHK紅白歌合戦で、テノール歌手の秋川雅史(54)が歌って人気に。翌07年にミリオンセラーとなった。新井さんはその際「この歌には“死とは再生すること、命とは永遠に不滅なのだ”というメッセージが込められている」とコメントしていた。東日本大震災で残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」を題材に写真詩集「希望の木」も刊行。遺族の心に寄り添い、勇気付けた。

 ◇新井 満(あらい・まん)1946年(昭21)5月7日生まれ、新潟県出身。電通で環境映像の製作に携わる傍ら、小説や歌などの創作活動を行う。87年に小説「ヴェクサシオン」で野間文芸新人賞を受賞。「千の風になって」は2001年に制作。07年、同曲で日本レコード大賞作曲賞受賞。高校の校歌も手掛けた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d4cdba2a17db0ba6ee647c6eff4d038a73e16c8a

以前、電通などのマーケティング系の人とスピリチュアルなものとの意外な親和性ということをぼんやりと考えていて、心に浮かんだのがこの「新井満」という人名だった。
ところで、上に引用した記事、「千の風になって」について、「米国に伝わる作者不詳の詩」と確定事実のごとく、またどちらも全く同一の表現で記述している。しかし、そんなに簡単に断言できるものではないことは、Wikipediaを一瞥するするだけで明らかだろう*3。なお、Wikipedia英語版の”Do Not Stand at My Grave and Weep”の項では、日本語訳の問題については全く言及されていない*4。それによると、最新の説では、詩の作者はClare Harner Lyonという人である*5。それ以前は、作者はMary Elizabeth Fryeだというのが有力だった。WikipediaはClare Harner Lyon説を前提に記述さてている;

ansas native Clare Harner's original poem "Immortality" was reprinted from The Gypsy in the Kansas City Times on 8 February 1935. Interest surged after the poem was read as a graveside eulogy by actor Harold Gould in the 1979 NBC TV movie Better Late Than Never. In 1981, newspaper columnist Bettelou Peterson identified the author for enquiring readers as "the late Clara Harner Lyon, of California." Later many other claimants to the poem's authorship emerged, including attributions to traditional and Native American origins. TV critic Richard K. Shull first publicized the claim for Mary Elizabeth Frye's authorship in a newspaper column for the Indianapolis News on 9 June 1983. According to the London Times obituary for the "Baltimore housewife Mary E. Frye," Dear Abby author "Abigail Van Buren" researched the poem's history and concluded in 1998 that Ohio native Mary Elizabeth Frye (November 13, 1905 – September 15, 2004), a self-employed florist and amateur poet, who was living in Baltimore at the time, had written the poem in 1932. In print, however, Dear Abby columns by Pauline Phillips and her daughter Jeanne consistently treated authorship of the poem as an unsolved mystery. As late as 2004, Jeanne Phillips acknowledged, "I regret that I have never been able to confirm the author.] Supposedly Frye had never written any poetry, but the plight of a German Jewish woman, Margaret Schwarzkopf, who was staying with her and her husband, had inspired the poem. Margaret Schwarzkopf was concerned about her mother, who was ill in Germany, but she had been warned not to return home because of increasing unrest. When her mother died, the heartbroken young woman told Frye that she never had the chance to "stand by my mother's grave and shed a tear". Frye, according to Van Buren's supposed research, found herself composing a piece of verse on a brown paper shopping bag. Later she said that the words "just came to her" and expressed what she felt about life and death.

According to her account, Frye circulated the poem privately, never publishing it. Her obituary in The Times asserted her claim to authorship of the famous poem, which has been recited at funerals and on other appropriate occasions around the world for 60 years.

ところで、Wikipeduaを読んで知ったのだが、この詩が葬儀において死者への手向けとして朗読されるようになった嚆矢は、1977年のハワード・ホークスの葬儀でジョン・ウェイン*6が朗読したことであるようだ。