弟は「多羅尾」

久松潜一『契沖』*1は『寛居雑纂』という文献を引いているが、それによると、契沖の弟に戒名が「永離院楽誉覚臾居士」、俗名「多羅尾平蔵光風」という人がいた。「宝永八年四月八日」に歿したという(p.13)。享年はわからず。養子に入ったのだろうか。「多羅尾」氏*2は近江の豪族で、「甲賀五十三家」のひとつ*3。江戸時代においては信楽代官に任じられていた。「多羅尾」という苗字は甲賀郡多羅尾村に因む。「多羅尾」という地名の起源について、Wikipediaは杉原信一『多羅尾の歴史物語』を引いて、以下のような伝説を紹介している;


もともとこの地には、たらが自然に大量に生えていて、たらほとか、たら野などと呼ばれていたが、平安時代のはじめ(814年ごろ)空海真言宗の本山、金剛峰寺をどこに建てようかと近畿地方を歩き回っていたとき、ここにも来て、村主にこう示唆した。

「印度の国では、多羅という大きな木が、たくさん植えられていて、むかし、まだ、紙がなかった時代は、この木の葉を干して、乾かし、これに、小刀のようなもので、経文を彫った。これを、多羅葉経といって、たいへん貴重なものとされた。多羅と、たらは、木の種類が違うが、発音が同じだから、今後、この、ありがたい多羅の字を用いて、多羅尾と改めるがよい。」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%94%BA%E5%A4%9A%E7%BE%85%E5%B0%BE

なお、契沖の俗姓は「下川」。先祖は近江の「馬淵」(現在の近江八幡市)にいた(p.9)。