或る夫婦の話

はらだ有彩「ソニア・ドローネー 私を半分にするもの、倍にするもの、同時に無尽蔵にするもの」『本の窓』(小学館)399、pp.38-43


ソニア・ドローネー/ロベール・ドローネー夫婦の話。


「夫婦」という言葉は、「夫」から始まる。夫婦で取り組んだ仕事は多くの場合、夫の仕事として紹介される。二十世紀初頭の芸術界でも女性(芸術家)は男性芸術家のサポートをまず担わされ、女性のみが独立して評価されることは多くなかった。女性芸術家がいたとしても、彼女たちはきちんとした美術論を持たず、研究や研鑽ではなく生まれ持った感性だけを頼りに制作し、才能を完璧にコントロールする気がなく(またはできず)、従って崇高な芸術ではなく生活に即した工芸やテキスタイルに携わるべきだ。だって、そういうものだろう、多くの人がそう考えていた。この曖昧で使い勝手のいい方便は、当時毎日のように刷新され生み出され続けていた芸術の新しい主義よりも、考え直される機会が少なかった。(pp.39-40)

ロベールは色彩について妻にアドバイスを求めた。ソニアは夫の取り組んでいた「同時主義(シミュルタネイスム)」*1に共鳴した。二人が相互に影響し合って研究と政策を繰り返したにもかかわらず、芸術史のキュビズムの項目に「ドローネー」の名が記載されるとき、その多くはロベールのことを指す。しかし現在ロベールの名前が、(同時代の他の作家に比べて若干小さく、それでも)歴史に残されているのは、ソニアの尽力の結果である。ソニアはいつもロベールに寄り添い、控えめに微笑みながらサポートし、自分の功績には言及しなかった。(p.40)

二十世紀初頭のパリの華やかさを思うと、夫婦は芸術史にコミットするチャンスに恵まれていたとは言えない。毎晩議論を交わした作家や、時には自分が面倒を見た作家がロベールよりも有名になっていく様子を横目で見ながら、ソニアは日記に「ロベールがこれほど先進的なのに」「ロベールは評価されるべきなのに」と書き綴った。主語は大抵「私」でなく「ロベール」だった。一九三六年のパリ万博で夫婦が手掛けたパビリオンが評価され、ロベールの作品が多く売れ、彼の収入が彼女を一次的*2に上回ったときもソニアは日記の中で大いに喜んだ。(p.42)

ロベールの死後、九十四歳までの三十八年間を生きたソニアは、多くの時間を彼のために使った。芸術史におけるロベールの功績を証明し世に残すために。「ソニア」ではなく「ロベール」の功績を。
女性芸術家の置かれていた環境を振り返ると、モダニストとして名を馳せた「ドローネー」夫妻も、性役割においてはそれほどモダンではないじゃないか、と言うのは簡単だ。たとえソニアが自らサポート役を買って出たとしても、ロベールに従属するつもりが一切なかったとしても、「夫」が実際にはソニアの天井として機能していた事実は打ち消すことができない。
あるいは、「ロベール・ドローネー」はソニアとロベールの一大プロジェクトだったとも言える。彼女たちは企業の社員のように、「ロベール・ドローネー」社を拡大するために働いたのかもしれない。その「巨大企業」がソニアの名を冠していても全く問題はなかったはずなのに、二人はそうしなかった。(pp.42-43)