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玉木正之*1「米長(九段)が求めた分身」『スポーツゴジラ』(スポーツネットワークジャパン)45、pp.31-38、2019
玉木氏は「eスポーツ」を「スポーツ」とは認めない。「eスポーツを感覚的にスポーツとは認めない多くの人々の感覚的根拠」は「身体性の欠如」と言い得るという(p.36)。氏は、チェスや囲碁やブリッジやビリアードといった「マインド・スポーツ」を「スポーツ」として認めているので(p.33)、これは「身体性の欠如」というよりも斎藤環氏の用語を借用して*2、〈臨場性の欠如〉と言い換えた方がいいと思う*3。
eスポーツは、闘う相手とインターネットや電気的配線によってつながれ、互いに身体を触れ合わないだけでなく、相手(の身体)を見ることもなければ、目を交わす(見つめ合う)こともない。すなわち液晶画面に映じる仮想空間での自分の分身によって相手の化身を見るだけで、言葉を通じたコミュニケーションはもちろん、身体を通じたコミュニケーションも存在せず、人間と人間の一切の関係が断たれた仮想現実のなかでの行いによって、現実世界での勝敗という結果とそれに伴う賞金や栄誉が実体として存在するのだ。(p.36)
それは7年前、故・米長邦雄九段*4が生前の2012年、将棋ソフトのボンクラーズと対戦したときのことだった。結果は米長九段の敗戦となったのだが(その経緯は米長氏の自著『われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る』中央公論新社に詳しく書かれている)、勝敗以上に注目すべきは、米長九段が勝負に臨んだときの、その態度だった。
彼はコンピュータを相手にした対局で、将棋盤を挟んで有段者の棋士が座ることを要求し、その有段者が米長九段に対して敬意を払っている人物であることを求めたのだ。つまり米長九段は、コンピュータに対して実態のあるコミュニケーションの取れる人間をコンピュータの分身として登場させることを要求したのだ。
(略)身体的コミュニケーションを欠いたヴァーチャルな世界での営み(コンピュータの考えること)でも、それが現実の人間世界に出現してくる場合(人間を相手に勝負する場合)は、現実の人間世界のルール――すなわち身体的コミュニケーションが存在するというルールに従うべきだということを、米長氏は主張したのだ。(p.37)
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*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20071106/1194366206 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/09/25/022258 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/10/18/123159
*2:塩田彩「シリーズ疫病と人間 精神科医 斎藤環・筑波大教授」『毎日新聞』2020年8月1日 See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/16/173333 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/18/143133 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/21/105443
*3:玉木氏は「身体性」の特性として、「実感としての肉体的”痛み”」の存在も挙げている(p.38)。
*4:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070225/1172421318