何故いまいちなのか

中村修也「『今昔物語集』と平安京の人々」『鴨東通信』(思文閣出版)55、p.5、2004


今昔物語集*1は何故「歴史学ではなかなか取り上げられ」ず、国文学でもあまり重視されないのか。


大きな理由の一つに、『今昔物語集』が説話集であるという形式の問題があろう。私は歴史学が専門なので、古典文学の立場からの評かは不案内であるが、強いて推測すると、本文の用語の使用法が原則的ではないというのが、一つ問題になっているのではないかと思う。
たとえば「とても・たいへん」の意味の「いと」という副詞が平気で「糸」という漢字を当て字に使われていたりする。また、変則的な漢文が文中に登場したりする。これらはとても美文とはいえない。古典を正統に学ぶ人たちにとっては、とても模範的な文書とはいえないであろう。そんなところに『今昔物語集』が二番手か三番手の古典として位置づけをされる理由があるのかもしれない、と勝手に思うのである。
次に歴史学の立場からの評価を考えてみよう。これは単純に、あくまで説話であって歴史史料とは評価できないという立場が貫かれているにすぎない、と考える。付随的には、説話は一つ一つの話題は面白くとも、歴史学の正道である政治史や制度史を考える材料にはならないという現実的問題も含んでいる。
それゆえ、『今昔物語集』は、六国史や古記録から描き出された歴史のスパイスとしては利用されてきたけれど、『今昔物語集』をもとに歴史を描くということはなされなかった。(後略)