新丸ビルの裏

東京新聞』の記事;


丸の内のシンボル「東京海上日動ビル」解体へ 皇居周辺で初の超高層ビル
2021年4月4日 06時00分
 日本一のオフィス街、東京・丸の内に初めて建てられた超高層ビル東京海上日動ビル」*1が、再開発で解体されることになった。昭和建築界の巨匠、前川国男(1905~86年)*2の代表作の1つで、計画時は高さへの反対論があり「美観論争」が話題となった。景観問題を考える歴史の証人として保存を求める声が上がっている。(井上靖史)


 1974年に完成したビルは高さ99・7メートル、25階。赤茶色のタイルが張られた格子状の外壁が特徴だ。平べったい金属パネルやガラスに覆われたビルにはない味わいを感じる。
 東京海上日動やグループ会社の本店が入居する。築後、半世紀近くがたち「災害対応力や環境性能等の強化」を理由に、隣接の新館と一体での建て替えが決まった。グループでは、2023年度の解体着手、28年度の新ビル完成を目指している。

 「近代建築の父」ル・コルビュジエに師事した前川が、生涯で手掛けた唯一の超高層建築だ。「百尺規制」と呼ばれていた31メートルの高さ制限が、1963年の建築基準法改正で撤廃されたことで可能になった。
 東京海上(当時)が65年にまとめた当初計画は、高さ130メートル、30階建てだった。「美観を害する」「皇居を見下ろすのは不敬」などと反対の声が上がった。国会質問でも取り上げられ、メディアを巻き込み、賛否を巡る議論が沸騰した。高さを30メートル削り、71年にようやく着工にこぎ着けた経緯がある。

 前川が反対論と戦いながら超高層を目指した理由は何だったのか。当時、前川建築設計事務所に勤務し、ビルの設計に参加した大宇根おおうね弘司さん(79)=東京都町田市=は言う。「作りたかったのは、広場です」
 1万100平方メートルの敷地のうち、ビルが立つ部分の面積は2100平方メートルだった。後に新館が完成しても建築面積は4900平方メートルにとどまった。「敷地に公共的なスペースを確保すること。それが唯一、超高層が許される条件だと前川さんは説いていた。ビルは歴史的な遺産だ」

 近代建築の調査と保存のための国際組織の日本支部「ドコモモ・ジャパン」前代表で、京都工芸繊維大教授の松隈洋さんも「都市に光を取り入れ人々が集う場を作った。前川には、都心再生に一石投じようという思いがあった」と語る。
 前川事務所OBの松隈さんは、2000年代に入ってからの規制緩和で200メートル級の超高層ビルが林立した丸の内には複雑な思いを抱く。「高すぎる」と言われた東京海上日動ビルは巨大建築物に囲まれた。「広場」は容積率緩和のための手段になった。「前川が超高層に何を求めていたのか。もう一度、問い直したい」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/95654

このビル、何十回或いは何百回と眺めている筈なのだが、殆ど意識したことがなかったのだ。地図を見て、新丸ビル*3の裏かと軽く驚いた。
「超高層」というのは20階建て以上の建物をいうのだろうか*4。このビルが完成した1974年当時、東京タワーを除けば、所謂「超高層」は、霞が関ビル、京王プラザホテル(西新宿)、世界貿易センター(浜松町)、住友三角ビル(西新宿)しかなかった筈。