「海の帝国」或いは中心としての琉球

承前*1

国立歴史民俗博物館の『海の帝国琉球 八重山宮古奄美からみた中世』を観た。
沖縄(琉球)は一方で日本列島の京都や江戸の権力から見れば〈周縁〉であるが、他方自ら〈中心〉として〈周縁〉たる先島諸島奄美を支配していた。この展示は、主に最新の考古学的研究の成果に拠りながら、〈周縁〉としての先島諸島奄美から見た〈中心〉としての沖縄(琉球)を示そうとするものだといえる。
館内で配布されていた、村木二郎「最新の共同研究で明らかになってきた「琉球帝国」とうう新しい視点 総合資料学の実践 研究者紹介」という2020年2月発行のプリントから少しメモしてみる。


先島諸島にはどのような遺跡があるのでしょう。
琉球の遺跡といえば、首里城のような城*2のイメージがあるかもしれません。でも本島以外の石垣島宮古島などにいくと、集落の遺跡が数多く残っている。しかも埋まっているのではなく、ジャングルをかきわけたなかに石積みの遺跡があるんです。多くが15世紀くらいまで使われていたもので、現在では御嶽と呼ばれる聖地として、大切に祀られる場所になっています。その後もいろいろな島の集落遺跡を見に行くようになり、ここには近年大きく進んだ琉球研究を、さらに深める新しい切り口があるのではと考えるようになりました。
―先島から見た琉球ということですか?
ええ。これまで語られてきた琉球の歴史は、おもに沖縄本島を中心としたものです。薩摩の島津氏に侵攻されるまで、琉球王国は東アジアの海を舞台に国際交流の拠点として繁栄していました、といったストーリーで描かれることが多いでしょう。しかし、先島の島々から見れば自分たちは「琉球に侵攻された」というまったく逆の歴史もあるんです。実際、本島、宮古八重山諸島の言葉は異なっており、それぞれ独自の文化をもっていました。先島のジャングルにある集落遺跡は15世紀くらいまであったものが多いですが、それはちょうど琉球王国が島々に侵攻した時期です。200~300年前からあった集落は廃墟と化し、他の場所へ移転したのでしょう。
集落がなくなっても、地元の人々に「あそこに先祖が住んでいた」という記憶は残ります。これらの遺跡が現在でも御嶽として祀られているのは、そのためでしょう。そうした伝承はあるのですが、文献資料は琉球王国側のものばかりで、先島のものはありません。ですから従来の文献史学中心の研究に、考古学や民俗学のアプローチを加え、新たな研究ができるのではないかと思ったんです。
―2015年からの共同研究「中世東アジア海域における琉球の動態に関する総合的研究」ですね。
そうです。この共同研究では琉球王国という通例の研究用語ではなく。琉球「帝国」という言葉を使いました。この4文字のキーワードで、ある程度わたしたちの意図は伝わるのではないかと思っています。
民俗学には、島に伝わる地域の英雄・豪族にまつわる伝承研究の蓄積がありました。たとえば石垣島には長田大翁主やオヤケアカハチなどいう人がいたと伝わっていますが、その真偽や年代はわかりません。考古学は、出土する陶磁器から年代を特定し、遺跡の規模から集落の大きさを知ることができる。こうして様々な手法を結合することで、新しい角度から、また違った琉球の姿を浮かび上がらせることができるのではないか。ちなみにオヤケアカハチについては、琉球川の文献資料では1500年に「謀反」を起こしたとなっています。これを島側から見れば、15世紀後半に石垣島を中心に勢力を拡大していたオヤケアカハチという人物が、琉球によって攻め滅ぼされたのではないかと考えることができるのです。