1/4世紀前にわかっていたこと

Dopey「「気持ちはすごくわかる」固定電話に出るのが怖い“固定電話恐怖症”に圧倒的な共感の声」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200205-10000293-it_nlab-soci


曰く、


電話恐怖症とは「電話に出る、もしくは出ようとすると、心身症状を伴う苦痛を感じること」を指します。ある調査では会社の固定電話にかかってくる電話がストレスだと感じる人が62.42%で、なかでも東京の20歳から34歳の世代では71%にものぼるそうです (参考:20代に広がる「固定電話恐怖症」ベルが鳴っただけで体が震え心臓ドキドキ・・・退職する人も : J-CASTテレビウォッチ)。

「固定電話恐怖症」に対してネガティブな反応を示したツイートでは、固定電話での応対が「怖い」と、共感する声が多くを占めています。特に電話をかけてくる相手が誰なのか分からないことに「怖い」と感じる人が多いようです。

 「誰かが突然、強制的に自分の時間に割り込んでくる」など、電話応対によって自分の時間が割かれてしまうことに「怖くて当たり前」とする声もありました。


 固定電話恐怖症に共感するツイートのなかには固定電話だけでなく、電話そのものが嫌いであるといった声が多く見られました。

  特に多かった意見として「こっちの都合を無視してかかってくる」と、受け手の都合とは関係なしに会話がはじまってしまうという点。「相手の都合でかけてきて、こっちの手を止める電話の必要性がわからない」など、電話によって自分の作業をさえぎられてしまうことに不快感を覚える人が多いようです。


 仕事ではコミュニケーションツールとして電話を利用するよりも、緊急時以外はメールを利用したほうがよいといった意見も寄せられていました。

 「メールは時間の縛りがない」「メールは1度しっかりと考えられる」など、電話ではリアルタイムで会話しなければなりませんが、メールは自分のタイミングで相手に返信できるので、焦ったり緊張したりせずに正確な情報を相手に伝えられるという利点があげられています。

「固定電話」の場合、外出すればもう電話は追いかけてこない。でも、携帯電話の場合、何時でも何処でも電話は追いかけてくる。こういう電話の暴力性というのは新しいものではない。電話というディヴァイスにそもそも内在していた暴力性。電話の場合、声という直接性も相俟って、自らのプライヴェートな時空に対する侵襲性はとても強く感じられる。プライヴェートな部分に対する侵襲ということで、その不快感、さらには恐怖というのは痴漢やレイプといった性犯罪の不快感や恐怖にも似るのではないか*1。その一方で、特定の他者に対して、敢えて自らへの侵襲を特権的に許容するということで、電話はエロティックな親密性のトゥールともなり得るわけだ。勿論、私たちは四六時中エロティックな親密性に生きているわけではない。
こうした電話の暴力性、特に直接性、同時性、即時性の強制というのは、1995年にWindows 95がリリースされ、インターネットが一般化し始めた頃には、既にけっこう共通の認識となっていたと思っていた。インターネット、特に電子メイルが電話によるコミュニケーションの暴力性を緩和することが期待されていたと思う。勿論、インターネットにおいても直接性、同時性、即時性への欲望から、例えば既読スルーの禁忌化という仕方で、直接性、同時性、即時性の強制が再度生じてしまっているわけだけど。
ところで、電話におけるコミュニケーションの様式の考察も含む、吉見俊哉、若林幹夫、水越伸『メディアとしての電話』*2は1992年の刊行だったか。
メディアとしての電話

メディアとしての電話