ホームはホームならず

八つ墓村 (角川文庫)

八つ墓村 (角川文庫)

八つ墓村 [DVD]

八つ墓村 [DVD]

承前*1

清泉亮「山口「八つ墓村事件」、保見光成死刑囚が弁護士にも語らなかった“田舎暮らしの地獄”」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190725-00573622-shincho-soci&p=1


週刊新潮』編集部によるまえがき;


 最高裁は7月11日、保見光成(ほみ・こうせい)被告(69)の上告を棄却した。山口県周南市で5人を連続殺害し、2軒の民家を放火。殺人と放火の罪に問われ、死刑となった一審と二審の判決が確定した。これで「保見被告」は「保見死刑囚」となる。

『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)などの著作がある、移住アドバイザーの清泉亮氏は、この3年間、手紙や面会で保見死刑囚と交流を持ってきた。その知られざる素顔や、大手メディアが報じない事件の原因、何よりも事件が浮き彫りにした田舎暮らしブームの“盲点”を、清泉氏がレポートする。

弁護士との齟齬。弁護士は「妄想性障害」を強調して情状酌量を狙うが、本人にからすれば精神障害を強調されることによって、自分の主張の真正性が抑圧或いは否定されてしまう。また、繊細な記憶力。

保見死刑囚に粗野で自己中心的な側面があるのは事実だ。弁護団は一貫して、彼を「妄想性障害」の持ち主として扱った。だが、その内面は実に繊細だ。そして、こちらが驚かされるほど相手を観察している。

 強い印象に残ったのは記憶力。彼は事件当夜から山中への逃避行の間――草木1本の位置や正確な時刻さえも――何から何まで鮮明に覚えていた。手紙や面会で詳細な証言に触れるにつれ、「本当だろうか?」と疑問が湧いた。

 私は殺害現場から任意同行された場所まで、GPSを片手に確かめて歩いてみた。結果から言えば、証言の全ては完全に正確だった。記憶力に関しては、ある種の特殊な才能を感じたほどのレベルだった。

 自分が殺害した5人の被害者とのやり取りも――帰郷して“田舎暮らし”が始まった約20年間分を――鮮明に覚えている。保見死刑囚にとって最大の無念は、その全てが「妄想性障害」と判断されたことだった。単なる被害妄想と片付けられてしまったのだ。

 彼が思い込みの強いタイプであることは否定しない。だが、彼ぐらいのレベルは、世間のどこにでもいる。さらに、思い込みが強いからといって、彼の話が全て嘘であるはずもない。必ず真実が含まれている。そこには注意が必要だ。


 保見容疑者は、両親の介護に半生を捧げた。独身で、妻も子供もいない。愛犬が我が子そのものだった。そして彼は裁判で「愛する犬を集落の人間に毒殺された」と主張していた。オリーブの前に飼っていた犬で、名前をチェリー。本当に毒殺されたのなら、保見死刑囚が復讐を誓った心情は理解できる気もした。

 裁判では他にも「草刈り機を燃やされた」、「母親の介護でおむつを交換していると、自宅の中に入ってきた住民に『うんこくせーな』と暴言を吐かれた」といったイジメの事実を主張した。自分だけでなく、母親も侮辱されていた。しかし保見死刑囚は、介護に集中しようと、嫌がらせや暴言に耐えていたという。

 こうした保見死刑囚の訴えを、裁判は「妄想」と一蹴した。だが私の取材では、同じ集落の中でもイジメの事実を認める証言が多数ある。

 例えば、都会で施錠しない家は稀だ。しかし田舎では、カギをかけないどころか、窓をカーテンで覆っただけで不興を買う。「カギなんかかけやがって」、「カーテンなんかしやがって」と強烈な陰口を叩かれる。

 戸締まりを厳重にし、カーテンでプライバシーを保護することは、田舎では「隣人を信用していないサイン」と見なされてしまう。だから、他人が突然、無施錠の玄関を勝手に開けて家の中に入り、居間に出現することは決して珍しくない。

 保見死刑囚の「自宅に勝手にあがりこみ、おむつの件で母親と自分に暴言を吐いた」という証言は、だからこそ私は信憑性を感じる。だが、おそらく都会で生まれ育った裁判官は、そんな状況は想像すらつかなかったのだろう。

この記事、半ば過ぎから思いも寄らない(と、少なくとも私は思った)展開を見せる。
2003年のこと。

《母が12月26日に亡くなり、S(今回の事件で殺害した男性)が顔を出しに来たので、1月3日にお礼の挨拶に行きました。Sもよく来たといって酒をすすめ、私はビール、Sは焼酎に牛乳を入れて飲んでいたら、酔ってもいないのに台所の下から牛刀2本を出して『おまえケンカができるか』と聞いてきた。いい年してこの男、何を考えているのかと思いました。私が田舎に帰ってきて、はじめて話らしい話をした日です。

 1本の牛刀をアゴの下にあて、もう1本は左胸に。私は本気で殺る気かと聞くと、殺っちゃると言ったので、体をひねりました。その時心臓の外側を刺されました。刺されたあと、私も頭にきたのだと思います。胸に手をやりながら殴りつけてます。

 女(Sの妻)が電話をしていたので119番にしていると思い、帰りました。チェリー(筆者註:保見死刑囚が毒殺を主張した上記の愛犬)が心配して私から離れようとしなかった。私が死んでいたらチェリーがどうなるのか、私は急に悲しくなりました。血止めをしてチェリーと寝ました。

 朝、警察から電話が入り、私が悪いと思われていたので、刺された事を話した。病院に行って診断書をもらって来いと言われ、1月4日、あっちこっち病院を探し、縫ってもらって周南署に行った。

 右、左、前と写真を撮られ、取り調べ室で刑事に「Sも自分が悪かったと言ってるから大事にするな」と言われた。「これからあなたも田舎の人と付き合って行かなければいけない。仲良くして暮して行くように」と言われ、私もそうかと思った》

 以上が手紙の引用だが、本来ならSは殺人事件で立件されてもおかしくない。だが警察は何も動かなかった。保見死刑囚も今後の生活を考え、捜査を要望することはなかった。診断書も取らず、被害届を出さず、示談もしなかった。表沙汰にすることを避けた。


保見死刑囚は周南市で、高齢者が住む居宅のリフォームを請け負ったり、頼まれれば高齢者を車に乗せ、買い物に付き合ったりするなどしていた。そのため、逮捕後でも密かに彼を慕う高齢者がいた。

「保見容疑者には助けてもらっていた」と語る老女が、私に以下のようなことを明かしたことがあった。

「保見さんが裁判で主張した嫌がらせは、すべて本当のこと。集落の人から刃物で切りつけられ、胸に大きな傷を負った時も、私は『殺人未遂でしょうに。なんで警察に行かんの』と言ったくらい。集落でイジメられて、カレーを食べて苦しくて死にそうになったことも聞いています」

 ある日、保見死刑囚は外出から帰宅すると、作り置いていたカレーを食べた。次の瞬間、息が止まらんばかりに嘔吐し、床にのたうち回った。

 食中毒ではないかと保見死刑囚は考えた。「誰かがおそらく農薬か化学物質を混ぜたのでは」と判断した。それ以来、彼は自宅の周辺に過剰とも思える監視カメラを設置し、自宅のベッド脇のモニターで画像を確認できるようにしていたという。

「保見さんが言っていることは、全部本当ですよ。集落の者も分かっているはずです。でも誰も口には出さんでしょうけどね。保見さんが住んでいた金峰地区だけでなく、あの集落はどこでも、後から来た者はみんなイジメられている。やっぱり保見さんは親が亡くなったら、さっさと集落を出るべきだった……」

 そう言うと、老女は涙声になった。保見死刑囚の親族は、彼の献身に現在でも感謝の念を忘れない。

「父親は肩の骨が折れたりもして、歩けないことはなかったけど、心臓のほうも悪くなっていた。母親も足が悪く、身体がままならない。誰かが介護しなければというところに、あれ(筆者註:保見死刑囚)が『じゃあ自分が』と帰ってきて、面倒を見てくれることになった。あれが両親を見てくれたから、きょうだいはみんな働いたり、どこにでも行けたりしたんです」

「オキへ出て行った者」へのルサンティマン;

保見死刑囚の育った金峰の集落には「オキへ出る」という言葉がある。オキとは集落を離れ、「町」へ出て行くことを指すのだ。付近の集落の者がこう話したことがあった。

「オキへ出て行った者は、郷里を捨てた者。都会でいい思いをして戻ってきたからといって、山の中でずっと耐えてきた者の気持ちなどわからん」

 そんな言葉もまた、素直なものだろう。進学、就職というかたちで、金峰の集落から皆、オキへ出て行った。その中で、故郷に残り、過疎地となり日本全土の発展からは置き去りにされ、不便さに耐えてきたという意識が、留まり続けた者の心にはある。

 それはともすれば、オキに出て“楽”をしている者たちの“犠牲”になったという意識につながりえないだろうか。それが同じ郷里の者でありながらも、一度オキに出て行って戻ってきた者に対する、どこか素直には受け止めきれない、気持ちのねじれ、付き合いのゆがみにつながってはいまいか。

 保見死刑囚が辿った人生の顛末は、経済成長の果てが生んだ地域格差の、極めつけの悲劇であるようにも思えてならない。

 彼が比較的、心を赦したと思しき知人の1人は、声を潜めて「保見死刑囚に差し入れてやってくれ」と言って、ある時、1冊の般若心経を私に託した。その知人もまた、若い頃に集落の外で働き、理由があって帰郷した。いわゆるUターン住民の1人だった。私との会話で彼は、「殺された者の名前を聞いて、ああ、やっぱりな、やっぱりやられたか、と思ったよ、正直」と振り返った。

「俺みたいにあくまでも下手下手に出て、要はゴマすって生き続けるしかねーんだよ、こういうところでは。ここじゃあ、人間関係は上か下かしかねーんだから。『あなたがいなければ』、『あなたがいてこそ』って、声を掛けなきゃ。でも、そこまでやったって、向こうが挨拶を返してくるかどうかはわかんねえ。その時の向こうさん次第だ。でも、とにかく向こうが気づく前に、こっちからゴマすって、挨拶をしなけりゃダメなんだ。保見はそれができないから、嫌われたんだよ。ゲートボール場とかでも言われてたんだよ。いろいろ噂して。だから、殺された者を見てね、ああ、やっぱりな、と思ったわけよ」

 保見死刑囚は“妄想”に駆られて、見境なく無差別殺人を犯したかのようなイメージが流布している。だが実際の被害者は、冷静に“選別”されていたことが分かる。イジメに加担しなかった家は素通りされ、被害に遭っていない。

 私が保見死刑囚の自宅を管理するため、金峰を訪れていた時のことだ。あの般若心経の知人と再会すると、彼は「俺だって、犬2匹、殺られたからな……」。

 そして不穏な言葉も口にした。「俺もよ、いつ手縄がかかることになっちことをしかねないか、わかんねえからな。俺だって、明日は保見死刑囚と同じになっちまうかしれねえからな」

そもそもムラから「オキへ出て行った」のは、田んぼを分けてもらえなかったから、地元に職がなかったからだろう。残留者に「オキに出て“楽”をしている者たちの“犠牲”になった」という怨恨がある一方で、「オキへ出て行った者」の方でもムラに捨てられたという怨恨(棄民意識)があったとしても不思議ではない。勿論、ルサンティマンとか悪意とかを捨象したとしても、帰郷者と故郷に残った者たちの間に齟齬や葛藤が生ずるのは避けられない。アルフレート・シュッツが言うように、2つの異なった時間の流れを生きてきたわけで、それらが合流すればショックが起きるのは当然だ(Cf. “The homecomer”*2)。
Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

清泉氏の記事、また本エントリーは出戻り者(homecomer)の視点やロジックに偏っており、居残り組の視点やロジックによって補完されなければならない。