近代/スポーツ/精神/身体

柳川時夫「メディア社会のスポーツ 佐伯聰夫氏に聞く」『毎日新聞』1986年6月16日夕刊


佐伯聰夫氏は「スポーツ社会学」専攻。1986年の時点では「筑波大学助教授」だが*1、現在は「平成国際大学*2
少し抜書き;


「昨年の阪神フィーバーを見てると、阪神が優勝するという意外なハプニング性、出来事性に、『何か面白いこと』を漠然と求めていた人々のエネルギーが引きよせられていって爆発したという印象ですよね。この『出来事性』と対照的なのが、高度成長期に神格化されたイメージをかぶせられた巨人のV9の『儀礼性』といえるでしょう。この間の時代の移り変わりは、そのままスポーツをめぐる聖なる神話が崩れていく過程だった。スポーツ・ヒーローのスタイルという面で、この変化を代表しているのが『江川』で*3、従来のフェアプレーとかスポーツマンシップというような産業社会の倫理の映し絵としてのスポーツ神話から実力によってはみ出していくタイプの新しいヒーローです。その実力というのも、新しい神話を生み出しちゃうような圧倒的なものじゃくなくて、適当に強く、適当に弱いから常にニュースに事欠かない。人それぞれ勝手な読み込みのできるところが、メディア社会のヒーローにふさわしいんです」

近代スポーツにまつわる道徳性、精神性というのは、精神を貴び、身体を蔑視する文明そのものに根ざしてきたわけです。粗暴な土着の民衆スポーツを抑圧し、一方で貴族の賭けスポーツを排したところで成立した近代スポーツは、当初からその教育的機能を重視され、”堕落しがちな身体の運動”は厳しい禁欲的な道徳規範とセットにして初めて公認された。しかし、今日、あらゆる文化ジャンルの専門化が進み、その専門性に対する物質的報酬が当然視されるなかで、従来のアマチュアリズムの崩壊は押しとどめようがない。問題は、先に言ったようなスポーツ独自の歴史的性格のために、アマチュアリズムに代わるような職業倫理が確立していないということでしょう。スポーツがメディアを介した軽い娯楽となった現在、いきなり新しいプロフェッショナリズムの形成を、といっても難しい」
これに関してはhttps://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060226/1140927585 も参照のこと。
また、「差異」と「意味」について;

(前略)様々な商品イメージも、人々の若いエネルギーへの郷愁も、努力の報われぬ社会への怨念も、スポーツはあらゆるイメージを引きつけ、のみ込んでいく。なぜかといえば、あいまいで不透明な現実の中でスポーツは勝ち負けという明瞭な『差異』、しかも現実には無意味な『差異』を作り出すシステムだからです。その『差異』はそれ自体無意味なだけに、あらゆる意味や物語をそこに引き込むことができる*4。つねに『差異』を必要とするメディア社会にとって、まさに恰好な装置なわけです」