「居場所」(恩田陸)

恩田陸*1「居場所」『朝日新聞』2019年1月5日


実は、恩田さんの文章はそれほど読んだことはなかったのだ。
ちょっと抜書き。


「居てもいい」と感じる場所は、たいてい自然発生的だ。なんとなく、どこからともなく人が集まってきてつい長居してしまう場所。世間の目を気にせずに済む、ちょっと隠れ家っぽい場所。古くからある、車の入れない狭い横丁なぞはその最たるものだ。そういう場所には、時間の蓄積がある。人々の営みの歴史がある。
人気のあった居酒屋が新しい店舗に移ったら雰囲気が変わってしまい、お客さんが入らなくなってしまったという話を時々聞くが、人はやはり特定の場所に、時間の蓄積や土地の記憶を求めているのだろう。また、このごろでは最初から人が集まることを目論んであえて新設の「横丁」も作られているけれど、「こういうものが好きなんでしょ」という狙いが透けてしまい、作為を感じる場所に人は敏感で、あまり流行らないケースも見かける。

東日本大震災のあと、とある大学の建築科の研究室が「人々は今どのような場所を求めているか」というテーマの研究結果を本にした。
集団移転で共同体の土地の記憶を失うことへの不安や、コミュニティーの継続の難しさが言われていたさなか、日本の各地を回って「ここ、いいな」と思う風景をひたすら写真に撮ってその共通点を探す、というシンプルなプロジェクトだったが、たまたま書店で手に取り、パラパラとめくって収録された写真を目にしたとたん、そのさりげない風景に魅力を感じてすぐに購入してしまった。
決して特別な風景というわけではない。誰かが持ってきた椅子を並べた木陰とか、道路の上に突き出た長い庇の下の待合所とか、つぎはぎで付け足されたトタン屋根が並んでいる街角とか。けれど、人が心惹かれる風景や「居たくなる」場所は、やはり人の営みの記憶が感じられ、ゆったりとした時間の流れの感じられる場所なのだということを、その膨大な写真を眺めながらつくづく思った。
具体的に誰の、どういう本なのだろうか。

私は前回の東京オリンピックの閉会式の翌日に生まれている。当時もオリンピックは日本の高度成長の大いなる起爆剤だった。
そして、来年開催される東京オリンピックの主目的は東京の再開発である(としか思えない)。
現に、都心部はそれを口実に凄まじい勢いでガンガン再開発が進められている。
知っていた街の景色が根こそぎ変わり、土地の記憶がまっさらに更新される。かつては土地が相続されるとどんどん細分化されて売られていったが、今はその逆の現象が起きていて、小さく区画が分かれていたところがドカンとまとめて大規模な施設に生まれ変わる、ということがそこここで起きている。そのあまりの変わりっぷりに、前はそこに何があったかということをたちまち忘れてしまう。
変る風景に、こんなにも不安と悲しみを感じてしまうのはなぜなんだろう。
町を歩きながら考える。最初のうちは、きっと単に私が歳を取ってきて、自分の知っていたものが消えるのが淋しいからだとか、心が固くなってきて、新しいものが怖いからだ、と考えていた。
けれど、最近になって、いや、新しい風景の中には自分の「居場所」がないんじゃないか、と薄々感じているからだ、と思うようになった。
この先できる、素敵なインテリジェントビルや、感度の高い人々が集まる商業施設には、彼らが望むお客様しか入れない。最初から「居場所」のある人が選ばれていて、そこにあてはまらない人が「居られる」隙間も、ホッと息を抜くスペースも見つからない。そう思えて仕方ないのである。
これは私だけではない気がする。昨今、「居場所がない」と感じている人がこれまでにも増して多いように感じるのだ。