場力ではなく人力?

吉岡秀人「場のちから」https://www.huffingtonpost.jp/hideto-yoshioka/power-20180704_a_23473382/


ここで述べられているのは「場のちから」というよりは〈人のちから〉だろう。或いは、〈生体のちから〉といった方がいいだろうか。外科医である吉岡氏は「手術室」の例を挙げている。「手術室」という「場」を構成するのは、その場に居合わせた医師、ナース、さらには患者という人々だろう。それぞれが生体として固有のリズムをもっているわけだが、それらのリズムたちが相互に干渉し、同調したり反撥したりしながら、個々のリズムを超えた場としてのリズムが形成される。或いは、その場に居合わせた人々が或るノリを共有するようになる。そのノリに違和感をもつ人が出現すると、均衡が揺らいで、場はまた変容する。本源的な意味における社会というのはこのような仕方で構成されていくわけだ。音楽的なパフォーマンスにおいて、或いは親しき中にも前戯ありといわれるセックスにおいて、日々新たに構成され続けているといえる。これはアルフレート・シュッツが”Making Music Together”で論じたmutual tuning-inということなのだが*1、音楽の場合、リズムの準位における相互調整と同時に和声学的な課題(ハーモニーの構築)にも直面しなければならないのだった。

Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

ところで、最近小学校の授業参観があって、英語と音楽の授業を見学した。音楽の授業では、「ブンブンブン」のリズムの構造を分析しながら、八分音符や四分休符の意味、テンポが変わってもリズムの構造は不変であることを理解させようとしていた。自分が小学校1年の頃の音楽の授業がどんなものだったかはすっかり忘れてしまっている。