『朝日新聞』の記事;
桃の節句に因んで、沢山の雛人形が公衆に向けてディスプレイされるというイヴェントは、ここに限らず、日本各地で行われているようだ。
ひな壇20段、圧巻の2千体 福井・大野
筋野健太2018年3月2日13時45分
桃の節句を前に、福井県大野市では「春を彩る越前おおのひな祭り」が開かれ、武家屋敷や資料館など11会場で、江戸時代から現代までのひな人形が飾られている*1。
メイン会場の「平成大野屋平蔵」*2では、幅約7メートル、高さ約4メートル、20段のひな壇に約2千体のひな人形が並び、訪れた人は感嘆の声を上げていた。各家庭で飾られなくなったひな人形を市内のおもちゃ屋が引き取って飾り始めたのがきっかけで、今年で8回目となる。
初節句の長女を連れて訪れた同県坂井市の嵐川祐紀さん(33)は「昔のは顔が大きいんですね。娘の良いお祝いになりました」と喜んでいた。
21日まで。(筋野健太)
https://www.asahi.com/articles/ASL2X5FSLL2XPQIP01B.html
まあ写真を見ただけで、「圧巻」だというのはわかる。でも、それだけじゃない。不気味。キモカワ*3と言えるのだろうか。何故、不気味で「圧巻」なのか。勿論、量的な変化は或る閾値を超えると、氷(固体)が水(液体)になり、水(液体)が蒸気(気体)になるように、質的な変化になってしまうということはあると思う。また、雛人形というのはドメスティックな存在である。女児のいる家で桃の節句が近づくと、押し入れから出されて、子ども部屋に飾らざれ、また押し入れに仕舞われる。或る意味で、家族のプライヴァシーを象徴しているともいえる。それが公衆の面前でディスプレイされる、しかも大量に。すると、見る側が微妙な気恥ずかしさを感じることになる。不気味は見る側の気恥ずかしさを肥料にしているところもある。勿論、人形の持つフェティッシュ性*4を無視することもできないだろう。そのフェティッシュ性には、人形には顔があるということが関わっている。「各家庭で飾られなくなったひな人形を市内のおもちゃ屋が引き取って飾り始めた」ということだけど、ここにも〈顔〉を捨てることへの畏れがあったのでは?
*1:See https://www.ono-kankou.jp/season/detail.php?cd=69 https://www.ono-kankou.jp/tourism/detail.php?cd=583
*2:http://www.h-onoya.co.jp/cp/event/detail.php?cd=46
*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060519/1148060699 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150619/1434649851
*4:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160212/1455298439 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171031/1509421484