「未完成」(宇佐美圭司)

宇佐美圭司*1『廃墟巡礼』から抜書き。


いつの頃からか、私にはもの作りの人間として一つの確信があった。作品の制作に、「完成」ということはあり得ないということ。
絵画にしても彫刻にしても、常に完成に向かって追い込んでいく努力なくして成立しない。しかし追い込んでいくことは、一つのやり方を選択し、他を諦めることにほかならない。ひとつの色を塗ることは他の色を塗らないことであり、その繰り返しがやがて完成へと作品を導くのであるが、そのとき、選ばれなかった可能性のあれこれが作品の裏側に、作品と一体化して集積する。
選択を支えているのは、作り手の思考や感性であり、それは、いつ、どこでといった条件と深く関わっている。作られたものが文化遺産となり、年月を経て、崩壊していくとき、制作時に洗濯からもれた可能性が作品のなかから姿を現わすのだ。作品は自ら、完成という仮の殻を打ち破って新しい生成をなしとげるだろう。(後略)(p.25)
また、

生命現象の特色の一つに、自己非完結性がある、機械と生物を比較すれば明らかだが、生物が生きるとは、自己の外側の世界と反応して相互作用を行い、情報や物質を交換することである。機械を無限に生物にシミュレーションさせれば、両者の区別が判然としなくなる地点もあるのであろうが、生物が機械のように自己完結して閉ざしてしまえば、氏が待ちかまえている。ならば、生物は自己非完結性によって無生物から分化したと見ることができよう。
自己非完結性はまた、生物の多様性の説明原理にもなる。一つの生物を安定した種として固定して見てしまうと、なぜ生物が私たちの環境世界でこのように多様に分化し、進化したのかを説明し得ない。生物は自分ではない世界に向かって、ある開かれ方をしている。他者性を内蔵しているからこそ、多様なあり方へと分化しえたのだ。それは、種の安定性、つまり一つの種が何万年も変化することなく存続することと、一見矛盾しているように見えるけれど、安定性の一方で、不安定な状況をつくり出し変化していくからこそ生物なのだ、と言えるだろう。(pp.27-28)

完成=種の自己同一性とは、無限の未完成を封じ込めた常態と言えるであろう。自己非完結性とは、空間的パターンの中に封じ込められている未完成への誘いなのだ。(p.28)