「退屈」と時間

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

ラース・スヴェンセン『退屈の小さな哲学』*1から。


退屈では、時間はもちろん克服されたものではなく、そのなかに閉じ込められる監獄だ。退屈は死に似ているが、この二つは矛盾する関係でもある。深い退屈は一種の死であるのに対し、市は退屈を完全に断ち切る唯一のものにも見えるのだ。退屈は有限性と無に関係している。死のなかの死であり、生きていないのと同じである。退屈の非人間性は、僕たち自身の人間らしさの見通しにも関わっている。(p.51)
また、

(前略)ドイツ語の退屈Langeweileつまり「長い持続時間」は部分的には誤りと言えよう。なぜなら、退屈のなかでの時間は、きわめて短い持続時間として言いあらわされるからだ。すべては、時間の体験を、退屈しているそのときに話すのか、思い出として話すのかによって違ってくる。退屈しているそのときは時間が埋まらないのに、引いてみると不思議と短く見えるのに対し、精いっぱい生きた時間は驚くほど長く見える。時間は長くなっているのに、人生は短くなる。ただ一つ、本当に深い退屈のなかでだけ、持続時間の長短の区別は消える。あたかも永遠が向こうからやってきて、僕たちの世界に押しかけたように――そして永遠を測る尺度はないのである。(p.73)