「退屈」と「不眠症」など

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

ラース・スヴェンセン*1『退屈の小さな哲学』(鳥取絹子訳)*2から、抜書き。


(前略)深い退屈は、現象学的な視点から見ると、不眠症に似ている(略)暗闇のなかでアイデンティティを失い、無限に見える虚無にとらわれてしまう。眠ろうと努力し、眠れそうに思えるのに、じつは眠れず、覚醒と眠気の間のノーマンズランド、無人地帯にいる自分に気づく。ポルトガルの詩人フェンルナンド・ペソア*3は、『不穏の書』のなかで次のように書いている。

眠気は感覚である。私たちの精神全体を霧のように覆いつくし、私たちに考えさせも、行動させもせず、はっきりと存在するのも許さない。あたかも夜、眠らなかったかのように、眠気は夢のように生き残り、そこにあるのは感覚のよどんだ表面を熱くしにくる昼間の太陽のような無気力だ。無であることに酔っぱらい、意志は、中庭を通りすがりに怠惰な足でひっくり返されたバケツである。
(p.12)
さて、著者は「ロマン主義とともに、退屈は文学としての品位を獲得し一般に普及したのである」と述べている;

退屈は近現代の人間の「特権」である。歴史の流れのなかで、喜びと悲しみの量はそう変わらないにしても、退屈はかなり増えているのを確認しなければならない。世界はたぶん前より退屈になったのだ。ロマン主義以前、退屈は貴族や聖職者だけの現象とされていた。なぜなら、豊かであることの外見上の印とみなされていたからだ。金銭的な問題のない富裕層だけが、退屈するという贅沢を自分に与えることができた。それが社会のすべての層に広まることによって、独占的な性格を失ってしまった。退屈は、いまや西洋社会全体に一様に広まっていると想像できるだろう。(p.25)