「人も 馬も」

近代秀歌 (岩波新書)

近代秀歌 (岩波新書)

永田和宏『近代秀歌』*1に引用された釈迢空折口信夫*2の歌;


人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり 旅寝かさなるほどの かそけき(Cited in p.154)
ここで詠まれているのは、「旅の途上で行き倒れ、死んでいった人や馬や病人」、つまり「行路病者のための供養塔」(bid.)。「眼前の卒塔婆や供養塔から、はるかな時間の向こうに死んでいったものたちへの、時間を越えた同化があり(略)ある種の皮膚感覚で摑まれた、かつての死者たちとの交感があ」るという(p.155)。

迢空の歌は一字空けが多いせいか、ゆったりと、まつわりつくようなリズムが刻まれる。特に「人も 馬も」の三音三音からなる六音は、道をゆくけだるい疲れを暗示するほかに、次に何が出てくるのだろうかという不安を内攻させるような不安定さをもっている。迢空が見ているのは、馬などの家畜を含めた過去の死者たちの跡であるが、また彼らが「道ゆきつかれ死」んだという現場に時間を越えて立つことでもあった。(pp.154-155)

なぜ私は釈迢空の歌が苦手なのか、考えてみても、よくわからない。迢空の歌は、細部の具体が削り取られ、あえて言えば、感覚の核だけが裸で立っている。そんな感じを抱くのである。茫漠として、摑みようがないという印象も強い。ここにあげた二首*3は、例外的にくっきりと情景が思い浮かぶが、迢空の多くの歌は、迢空の多くの歌は、このようなくっきりした対象の造形性は稀薄である。(p.155)