「倦怠」(甘糟りり子)

贅沢は敵か

贅沢は敵か

甘糟りり子「恋愛という関係」*1(『贅沢は敵か』、pp.172-180)から、


恋愛に関する感情の中で最もやるせないのが、倦怠である。
人間が、物質ではなく、生身の人間に飽きて嫌になるとは、なんて残酷な感情だろう。私なら、飽きられるくらいなら、嫌われたり憎まれたりしたほうがましだ。けれど、恋愛感情の終わりは、すべて倦怠ではないかとも考えている。
恋愛においては、慣れるということと飽きるということは、複雑にからみあっている。何十年も一緒にいる夫婦だけのものではない、つきあいはじめて三日目の恋人同士だって、それは忍び寄ってくる。
正直にいうと、倦怠という感情を強く実感したことがない。私は倦怠が怖くてしかたがない。だから自分の気持がそれに浸される前に、逃げ出してしまうのだ。
反対に、相手が自分に飽きていそうな気配を感じると、胸が痛くなるほどあせるあまりに、無理やり今までと違う自分をでっちあげようとするから、相手はさらにしらけてしまう。そういう自らの行動で、恋愛を短縮してきたように思う。
こんな風だから、私は他人の目には行き当たりばったりの恋愛を好むように映るらしい。けれど、私だって、上手に倦怠という感情を克服したいと思っているのだ。
なぜなら、倦怠を乗り越えたタフな関わりには、恋愛とはまた別物の味わいがありそうだから。相手に飽きてうんざりしたその後で、それでも相手の存在が心にひっかかっている、そういう関係に本当は憧れている。(p.180)