「日本人は議論ができない」問題

雨宮紫苑「「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ。」http://www.huffingtonpost.jp/shion-amamiya/discussion-japanese_b_17665436.html


フリーライター」ということだけど、雨宮処凛さん*1とは無関係なのだろうか。
さて、「「ちがう意見=敵」と思ってしまうことが、「日本人は議論ができない」と言われる原因のひとつではないだろうか」という。


当然のことだが、意見の賛否と人間性は分けて考えるべきだ。仲がいい友人でも驚くほど考え方が違う場合もあるし、逆に考え方はとても似てるのになんだか好きになれない人だっている。

それでも日本では意見の賛否と人間性を切り離せない人が多く、話し合いの場でも感情が重視される。

小池東京都知事が安全より安心を重視したことは、わかりやすい「感情優先論」と言えるだろう。

ほかにも、「○○さんは不倫をする不誠実な人なのでその意見は信用できない」だとか、「そういう言い方をすると傷つきます」のような、「本題にまったく関係ないし客観的根拠もないが情に訴えます」という姿勢で話し合いに臨む人が少なくない。

なぜ、日本はこのように感情が優先されるのだろう。

これは、日本の「同調圧力」「空気を読む」といった独特な考え方に根差したものだと思う。

みんなが同じ考えであることを前提としているから、同じ考えの者同士は徒党を組んで、ちがう意見の者を攻撃する。みんなが賛成なのに反対する「空気が読めない輩」は、厄介者扱いされる。

意見がちがう=和を乱す悪者であり、敵なのだ。

そういう思考回路だと、敵には容赦なく攻撃するし、「自分が正しいから相手は間違えている」という極論に走るようになる。

意見がちがう人=敵だと考えている限り、双方は意見はひたすら平行線をたどるし、議論ではなくただの意見の押し付け合いになる。

白黒はっきり決められるテーマなら、それもありかもしれない。だが現代社会で話し合われる多くの問題は、確実な正解が存在しないのだ。現代では、議論を通じて、多角的な視点から「より正しい答え」を導くことが求められている。

重要な指摘だとは思うけれど、「日本」に還元していいのかどうかはわからない。社会心理学(帰属理論)の知見によれば、他者の振る舞いや言動をその場その場の気紛れな主観的意図などではなく恒常的な属性に帰属させることによって、認知的安定が達成される*2。日本人に限らず、レイシズムを含む本質主義の認知的基礎はそこら辺にあるといえるかも知れない。勿論、認知的に安定する代わりに、そこから新しい知識とか解釈とか意味とかが生成される可能性は低い。まあ、安定を選ぶのか、それとも不安定を引き受けつつ知的活性化を選ぶのかということにおいては、〈文化〉の影響は重大なのかも知れない。
ところで、1980年代辺りから、米国経由で〈ディベート〉という発想が日本にも導入されている筈だが、その功罪はきちんと評価されるべきだなと思った。