「ハーフ」など

モーリー・ロバートソン「ショーンKの後任、モーリー・ロバートソンが書いた「ショーンK問題の真相」」http://bunshun.jp/articles/-/2


昨年8月にアップロードされた文章。まあ「ショーンK」(ショーン・マクアードル川上*1という存在など、既に多くの人が忘れてしまっているかも知れない。でも、2017年の7月の時点においてもレリヴァントな部分はあるのではないだろうか。
ロバートソン氏の文章のおかげで、「アニリール・セルカン」という人物の存在を思い出してしまった;


「ショーンK」がデビューをしたJ-WAVEで、かつてもう一人、経歴を詐称した知識人が持ち上げられたことがある。それはトルコ人の自称宇宙飛行士、アニリール・セルカンだ。ぼくはある年の年末スペシャルで、その人物とマッチメイキングされた。当時のJ-WAVEの編成局長はセルカンに惚れ込んでいた。セルカンが提唱する「宇宙エレベーター」構想や、静止軌道上から地球の諸問題を解決するという壮大な、壮大過ぎるヴィジョンに心酔していたのだ。共演したスタジオで、印刷されたプロフィールが渡された。そこには東京大学大学院工学系研究科建築学専攻助教プリンストン大学数学部講師、ケンブリッジ大学物理賞、NASAジョンソンスペースセンターを含む華々しい肩書が並んでいた。あれほど卒業が難しく、競争が熾烈だったハーバードに匹敵する世界の名門校やNASAでさまざまなポストを歴任し、あるいは受賞。それのみか冬季オリンピックにまで出場したとするセルカンの経歴に、この世のものならぬものを感じた。

 だがインタビュー中、セルカンは具体的な話をことごとくそらし続けた。英語はまあまあ流暢だったが、科学者の語り口ではなかった。何かが匂った。後にネットの有志によってじわり、じわりとセルカンが論文盗用、経歴詐称、人物詐称をし、その偽りの肩書で講演会を開き、暴利を貪っていた実態が露呈する。詐称の暴露と同時にセルカンは日本から姿を消した。J-WAVEの上層部はセルカンを持ち上げた「黒歴史」をなんと思っているのだろう? その後「ショーンK」に長年に渡り、一杯食わされたところを見ると、おそらく何も学んでいない。幕引きだけは上手になったが。

この文章の中心は、やはり「ハーフ」という存在*2についての考察であろう;

「ハーフ・タレント」という存在には、いくつもの隠れた付録がついてくる。そこには日本社会に無言で定着した「人種の序列」や「優生学」の価値観がこびりついているのだ。まず、ハーフ・タレントは一にも二にも、日本人を脅かさない。本来、外国の文化や価値観を身に着けたハーフたちは日本人の同質な意識に楔を打ち込み、その都度脅かす存在であるはずだ。しかるに、テレビはさまざまな手品の手法で、日本人の視聴者が見ていて小気味いいハーフ・タレントを演出し続ける。「日本人でよかった」と思わせてくれるハーフたちは、その存在そのものが自己矛盾している。

さて、「外タレ」が見世物的な欲求を満たすものだとしたら、ハーフ・タレントはその改良型と言える。「外タレ」のぎごちなさを抜き取り、容貌は欧米風味だが中身はそっくり日本人だからだ。業界からすると視聴率が稼げて、しかも使いやすい。ハーフ・タレントはたまにそれっぽい英語を発音して、あとは流暢な日本語で語ってくれる。テレビ局にも視聴者にも都合がいい存在なのだ。

「そのどこがいけないの? だってハーフはきれいじゃないですか? ぼくらはそんな難しいことを考えてないんですよ。きれいでかっこいいからテレビで見たいだけなんですよ」

という素朴な反論が聞こえてきそうなので、それにも答えよう。「ハーフはきれい」の後ろには、人種の序列が潜んでいる。あまり日本人との違いが引き立たない東洋系のハーフ・タレントは希少価値が認められない。在日コリアンのハーフはそもそも出自を隠すことも多い。アフリカ系アメリカ人の父と、日本人の母の間に生まれた宮本エリアナさんがミス・ユニバース日本代表に選ばれた時には、一部から心ない差別の言葉がぶつけられた。

 だが反対に白人のハーフやクォーターは、現場でとにかく求められる。さらにファッションモデルや下着モデルになると、この傾向が酷いぐらい露骨になる。なんなのか? ずばり、白人へのコンプレックスだ。白人の容貌だけではなく、白人という存在に対する日本人の劣等感。

「日本人はどんなにがんばっても白人の下の身分に生まれている。だが日本人はアジアの諸民族の長である」

とする世界観である。これは160年ほど前に国をこじ開けられた当時、圧倒的にかなわない先進文明に出会って受けたトラウマが形を変えて存続しているのだと思う。言葉にならず、ディスカッションもされない「白人ハーフやクォーターはかわいい、きれい」の裏には「脱亜入欧」の負の遺産が潜んでいるのではないだろうか?

文章の最後は、「日本語オンリー、日本在住オンリーの人々」が主流である日本への批評となっている;

また、「帰国子女」と呼ばれる海外経験のある日本人も年々増加している。日本のほとんどの企業では英語が得意な幹部は少ない。したがって「帰国子女」たちの真の能力を把握できなかったり、やっかみが邪魔をする。「帰国子女」たちは本来の力を発揮できる役職が与えられず、末端で通訳や海外からの電話番、メールの翻訳、代筆などの雑務に回されることが圧倒的に多い。だが本当は海外経験豊富なバイリンガルたちこそが、日本語オンリー、日本在住オンリーの人々よりも的確な判断を下せる場面が多い。

 英語への苦手意識から逃げまわり続けた世代が人為的に生み出した「失われた20年」。それは日本語の中へと鎖国した20年分の機会損失だ。逃げまわった上司たちは今後、大量に定年退職する。誰も責任を取らない。その負の遺産を引き継ぐ「帰国子女」たちはそれにかわって、徐々に時代の主役へと押し上げられていく。実際にグーグルジャパンに行くと、完全に国際人の天下であり、日本語しか話せない日本人社員との間に歴然と序列ができている。これは近未来を暗示している。日本の大企業がことごとくオセロゲームのように反転する日が来る。

 これまで「帰国子女」と呼ばれ、お飾りの扱いを受けた国際人たちが決定権を握り、人事権も握る。その結果、「国際人」の上流社員と「国際的ではない日本人」の下働きへときれいに二分化する時代が来る。グローバリズムはそれを要求する。その頃には、かつて「ハーフ・タレント」として日本に媚を売り、おもてなしで叩き上げた面々が経営者となっており、「合理的」な経営判断を下す。少数のエリート社員は全員バイリンガルかトライリンガル。日本語しか話せない者は非正規社員。「純正日本人=純ジャパ」はバイリンガル上司に気に入ってもらおうとお互い競争する。ホラッチョたちに依存した日本の行き着く先は新たな「segregation=人種隔離」の社会に他ならない。

「失われた20年」と「英語への苦手意識」を因果関係で結びつけるのは妥当なのだろうか。問題は、「失われた20年」よりも遥か昔から存在していたのではないだろうか。遅くとも1945年以降。まあ、「帰国子女」という社会的カテゴリーが着目されたのは〈バブル経済〉の頃だったけれど。中公新書から宮智宗七『帰国子女』が出たのは1990年。
さて、蓮舫がバッシングされているのは*3、もしかして「純ジャパ」によるバックラッシュ、或いは人口学的には圧倒的なマジョリティである「純ジャパ」への忖度ということになるのだろうか。