贅する?

「「選択的夫婦別姓」を至急導入しないと、絶えるイエ(氏姓)が続出する」http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20160902/1472827874


曰く、


(前略) 俺の子供はこの娘だけだから、俺の娘の結婚相手が我が家の姓になるのを拒んだら、我が家系はイエ制度的に俺の代で終了だ。

氷河期世代より下は特に少子化していて兄弟姉妹のいないケースが多いだろうから、運良く結婚できても長男長女同士のケースばかりで、「選択的夫婦別姓」を至急導入しないと、婚姻が一つ成立するたびにどちらかの氏姓はイエ制度的に絶えることになるな。

それって日本の伝統文化的にどうなんだろうね。

また、


「補遺、選択的夫婦別姓を認めないとどんどん日本の氏姓が消滅する件」http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20160904/1472999465



選択的夫婦別姓が法的にOKなら、どうにか1世代、年数にして約30年弱、この問題を先送りできる。30年後にはひょっとしたら日本の出生率が増えて、夫婦相互の姓を次の世代が受け継ぐことができるかもしれない。

選択的夫婦別姓を法的に認めないのなら、もう現時点で刻々と、婚姻に成功した日本社会の成功者の家系の氏姓はそのたびごとに半数となり、もちろん成功しなかった家系の氏姓はその代で断絶である。


選択的夫婦別姓という回避策延命策を自称「保守」な人が拒絶しているのは、現時点の自称「保守」が都市層に偏っているからで、地方在住民の生活感覚・伝統継承感覚を現時点の自称「保守」がまるっきり全然反映していないから、だと俺は思う。

俺の田舎は一村落中8割が同じ姓なので、同じ村落で婚姻している限りはこの問題が顕在化しないかもしれないが、さすがに俺の年齢より下は県外者との婚姻が多くて、氏姓の継承に着目しだすと夫婦別姓と夫婦同姓と比較すれば別姓のほうが家系氏姓継続という意味で保守的価値観から見て正解だと思う。

なので今後10年以内の短いスパンで保守思想界は、イデオロギッシュで地方無視な夫婦同姓論と、もっと地方民の生活感覚ならびにイエ制度存続感覚に沿う夫婦別姓との対立となると思う。

まあ、「イエ制度」というのは全然関係ないけれど。たしかに、少子化が進むと、一人息子と一人娘同士の結婚というのが増える。その場合、現在のような強制的「夫婦同姓」制度の場合、どちらかの苗字は「断絶」してしまう。鈴木とか佐藤ならともかく、佐村河内とか小保方とか能年といったそれ自体が無形文化財といえるような苗字に生まれた人が、そのために結婚に二の足を踏んでしまうというのは十分に理解できるし、二の足を踏んでしまう人も実際にいるらしい。法制度がどのように対応することになるのかはわからないけれど、これからは中国語では「贅」と表記されるような結婚形態を望むカップルも増えてくるのではないか。妻の産む男子のうち少なくとも1人が妻方の姓を継承することを条件とした結婚形態。上田信『伝統中国』*1から引用する;

(前略)もし息子が生まれなかった場合には、系譜が途切れてしまう。この危機を回避するための方便の一つが〈贅〉である。生まれてくる男児の一人に妻の父の系譜を継がせることを条件とする婚姻であり、夫は妻の家に帰属するわけではない。、もし複数の男児が生まれれば、夫の姓を継がせ、夫の系譜を後代に伝えることも可能である。日本の近世社会でみられる〈入り婿〉とは本質的に異なる。人類学でいう「妻方居住婚」でもない。妻方居住することが〈贅〉の必要条件ではないのである。(p.98)
まあ、必要なのは、「夫婦別姓」だけでなくて、親子間や兄弟姉妹間での別苗字の容認だろう。まあ、江戸時代においては、そこら辺は緩かったようだが。小津家に生まれた本居宣長は母方の名字である「本居」を択んだ*2。父方の名字を名乗るのか母方にするのかを、子どもが選択できるようにすべきではあろう。
さて、最初に「イエ制度」とは関係ないと言った。寧ろ、「イエ制度」の衰退によって、子どもがいなければ断絶してしまうというプレッシャーが増大しているという側面はあるのだ。「イエ制度」的な解決方法として、本家が絶えても分家が続けばまあOKということがあるよ。分家の創設にはリスク・ヘッジという側面があったわけでしょ? 本家(将軍家)の断絶というリスクをヘッジするために、紀伊尾張、水戸という御三家を創設し、さらには田安、一橋、清水という御三卿を創設した。他方、分家にとって、本家の断絶というのは日陰者の位置から脱するチャンスでもあったわけだ。